課題の教科書

Critical Realism for All Leader

保守の意味とは何かリベラルとの対比で整理すると出る歯ごたえ

こんにちは。ポエタです。

保守とリベラルの違いはあちこちで論じられています。

「歯ごたえ」を理論的に語るのはばかばかしいことです。

保守の精神は「歯ごたえ」です。

今回のコラムでは語るも愚かなことを語りました。

目次です。 

 

1 はじめに

保守とリベラルの違いとは何でしょうか。この議論はマスコミの報道等で大分浸透しているようです。

今一度、保守とリベラルの違いを確認し、保守とは何かを考えたいと思います。

保守の意味は、言語的な意味で言い尽くせない一種の「歯ごたえ」です。

 

2 保守とは何か

(1)リベラルとの違い

保守とリベラルとの違いは多く論じられてきました。歴史的事例や理論的根拠とともに知識人がよく解説しています。

保守は総合的な実践知に基づく判断力です。リベラルは合理性に基づく設計力です。

保守は、先に伝統、文化、歴史の蓄積があって、現状が少しずつ変化するありのままの現実に根をおろします。保守政治家は、自分が国の歴史や伝統の内部に埋め込まれた一要素として存在することを自覚し、国の状況を内部から徐々に変えていく改善アプローチをとります。

これに対してリベラルな政治家は、先に大きな理想像を絵に描き、諸現実をその絵の中に当てはめていく設計士のように振る舞います。設計士には万能な理性が備わっていると考えられます。改善のアプローチは、合理的な設計図が先にあって、現実をそれに合わせて変化させる力を行使します。

保守政治家は内在的に力を押し広げます。リベラル政治家は外在者として理論を適用します。ポエタは、そこに保守とリベラルの違いがあると思います。

(2)「保守政治家」は存在しない

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保守とは「総合的な実践知に基づく判断力」だと言いました。保守の本質は「実践」にあります。

中島岳志は、著書『「リベラル保守」宣言』で、真の保守精神を再確認する作業を行っています。その中で中島は「中庸の精神」の意義を語っています。

 

  • 「中庸」とはあくまでも「総合的なもの」です。いくら時代が動いても、それに随順しない精神のバランス感覚こそが「中庸の精神」なのです。

中島岳志『「リベラル保守」宣言』新潮社、2016年、P.93)

 

中庸の精神は、総合的な判断であり、平衡感覚です。中島は、平衡感覚は自転車の乗り方と同じで「HOW TO本」を読んでも身につかないものだと言っています。

 

  • しかし、経験を繰り返し、何度かうまく乗ることができるようになると、私たちは身体感覚を恒常化させ、他の考え方をしながらでも乗りこなすことができるようになります。

中島岳志『「リベラル保守」宣言』新潮社、2016年、P.94)

 

中庸の精神は、実践の中で磨かれるバランス感覚です。中島は、社会レベルで「集合的に積み重ねられてきた経験値」も重要だと付け加えます。また、そういうバランス感覚の支点を身につけるためには、その支点に立っているという自覚を意識することの重要性を強調します。

ここでポエタは考えます。平衡感覚は身体感覚であり理論化が難しい。集合的に積み重ねた経験値も、完璧な理論化は困難です。

これを「いやできる」と言うのは、万能な理性を信じるリベラルな精神です。保守ではありません。

ともあれ、中島はこの議論の箇所で、保守の精神は中庸の精神の同義である、とは明確に断言していません。中庸の精神を単に好意的に解釈しているだけ、とも受け取れます。

ただ、ポエタが確認しておきたいのは、中庸の精神は保守の精神を語る上での補助線になる点です。

中庸の精神と同じく、保守の精神を理論化することはできません。保守の精神には経験値としての実践知が満ちあふれています。保守は、目の前の課題に取り組むことで、その精神を実践します。しかし、その実践が、国中あるいは世界中全ての関係者から「総合的なバランスがとれている」と好評価を受けることは、まずないでしょう。そんなことができる完璧な理性はどんな人間も保有していないからです。

つまり、正真正銘の保守政治家としての条件を恒常的に備えている人物として、衆目が一致する人間は通常存在し得ないと思います。存在するのは保守という課題だけです。

保守は理論化できません。それが保守の前提だからです。

 

3 保守の歯ごたえ

(1)保守批判の限界

保守は理論化できないと言いました。存在するのは課題であり、取り組み実践する誰かの姿形だけです。

保守を自認する政治家を批判するとします。それが理論に対する批判であれば、保守批判にはなり得ません。保守は理論ではないからです。

あるいは、それが実践に対する批判であれば、どうでしょうか。その批判が理論に照らした上での実践内容への批判なら、それは保守の精神に反します。その批判者はリベラルな人でしょう。理論に依拠せず純粋に実践内容を批判するなら、政治的立場の違いの表明にすぎないことになります。

うまく言えないのですが、保守の人が保守の人を批判する場合、理論を批判の論拠にはできないのです。少なくとも理論的な答えに基づいて「やっていることが違う」という批判はできない、という意味です。(中島は「リベラル保守」を宣言する人ですから、純粋な保守ではないようなので、保守を理論的に批判する資格はとりあえず否定されません。)

(2)歴史的検証が保守へのけん制

ポエタは、保守とリベラルの統合を理論的に成し遂げることは無理だと思います。個々の必要に迫られた課題への取り組みの過程で、両義的な意味をもった「かたち」の像を一瞬だけ結ぶことはあります。しかし、その「かたち」は歴史の経過と現実の変化の中で徐々に輪郭線を薄めていきます。保守とリベラルが統合した後に現れる終局的な姿は、誰も見たことはありません。

詰まるところ保守は「今、ここ」の課題に尽きます。課題への取り組みは結果を求められます。保守の精神を発揮したか否かは、歴史的な結果をもって検証されます。保守は同時代的な実践的取り組みですが、保守の精神が成就したかか否かの検証は後世に託されるのです。

保守へのけん制方法は、百年単位の歴史検証チームを組成することです。慎重さを欠いたコメントでなければよいのですが、保守に対する同時代的批判は、保守が前提に置く歴史的現状の一要素であり、膝を屈して仰ぐ審判とは異なります。しかしその批判行為が、歴史の流れを引き継ぐ事実要素であるからこそ、保守は謙虚に批判の深層に思い巡らす深い懐をもたなければなりません。

このような同時代的批判を相対化する保守の精神は、権力闘争の修羅場をも歴史の一部として切り取り、冷徹な眼差しで見直しながら、どこかに必ず存在するであろう絶対的存在に敬意を抱きます。しかし、真の保守は絶対的権威を振りかざすことはしないでしょう。保守の精神は空っぽな奥行きに宿ります。

(3)リベラルの役割

保守が課題に尽きるなら、保守を旨としない政治家はいないことになります。しかし保守が課題に尽きるからこそ、生前に保守政治家として認証される政治家もいないはずです(生前に取り組みの歴史的検証が完了することはまれという意味です)。

ところが、こう考える時、すでに保守の理想化が始まっています。保守を言葉で語ること自体、保守を理論化する第一歩です。

保守を理論化することの悪弊は、保守の前提を切り崩しながら、個々の政治家の保守性を正当化する愚を犯すことです。

だからリベラルが保守を鍛える必要がある。それは本当に保守の精神なのか、批判を向ける必要がある。保守を現実にさらし、吊るし上げ、保守を揺さぶるリベラルが必要なのです。リベラルは保守の対立概念ではなく、役割です。時としてリベラルは保守に牙を剥きます。しかし、保守の意味は歯で噛みしめるものです。

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4 最後に

(1)保守の居所はつかめない

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中島は、複数の書籍を著していますが、『「リベラル保守」宣言』を読む限り、保守の精神を理論化し、具体名を記した政治家の活動実態に当てはめ、保守に値するか否かを吟味しています。

中島は、保守を理論化している時点で、既に保守ではない。批判という役割を担ったリベラルです。

現代の日本は保守対リベラルという理念的対立軸が薄まっていると思います。その代わりに、個々具体的な政策を題材に、保守の真価を試す政治のありように移っています。

誰が本当の保守かわからないところに、この種の議論の現実的問題があると思います。

(2)まとめ

  • 保守の意味は噛みしめるもの
  • 保守は課題に尽きる
  • 誰が保守かは最後までわからない

ポエタ

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