課題の教科書

Critical Realism for All Leader

穂積陳重が法学者として民法典起草の課題で果たした日本近代化のリアリズム

こんにちは。ポエタです。

近代の特徴はリアリズムです。

明治日本におけるリアリズムは、実務家のみならず学者をも巻き込む時代の潮流でした。

当時活躍した穂積陳重(ほづみのぶしげ)という法学者は、理論家としての基本軸を守りながら、実務的な時代の要請にも応えるリアリズムを発揮しました。

今回は、日本の近代化を支えた法学者のリアリズムについて考える事例編です。

目次です。

1 はじめに

日本の近代化は、様々な視点で語れられるテーマです。一般的にはあまり知られていませんが、明治期において西洋式の法学の受容は、日本の近代化において重要な鍵でした。その歴史的経緯が、『法学の誕生:近代日本にとって「法」とは何であったか』(内田貴筑摩書房、2018年)に詳しく書かれています。

本書によると、日本の近代化に法学者として重要な役割を果たしたのが、穂積陳重(ほづみのぶしげ)という人物です。今回は本書の内容に沿いながら、日本の近代化の過程で、法学者が実践したリアリズムを、ポエタ流に考えてみたいと思います。

 

2 穂積陳重という人

(1)明治初期の貢進生

穂積陳重(1855-1926)は愛媛県宇和島出身の法学者です。安政二年の生まれですから、江戸時代から明治、大正の時代を生きました。

明治政府は、日本の近代化を進めるため、西洋の学問を修めた人材の養成を急務と考えました。1870年(明治3)年に、明治政府は「貢進生」と呼ばれる制度を定め、16歳から20歳の秀才を各藩から集めます。穂積陳重は16歳の時に、宇和島藩の貢進生として選ばれ、大学南校に入学しました。

陳重は、まだ日本が西洋の学問を十分理解する前の時代に生まれ、時代の先端を行く人材として学者人生を歩み始めました。

(2)西洋式の法典整備

1876年に陳重は、文部省の留学生として法学を学ぶため、英国に向け出発しました。その後、フランス人法学者のボワソナードは、1879年に日本の民法の起草を委ねられます。明治政府は、不平等条約の改正を実現するための条件として、西洋法文化の受容を重視し、西洋式の法典の整備を急いでいました。

約10年の策定期間を経て、1890年に民法が公布されました。しかし、その前後から民法への批判の声が広がりました。いわゆる「法典論争」です。

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国内の英米法派とフランス法派の確執が背景にあるとも言われます。加えて、「民法を日本の国情を理解しない外国人が考えた」と受け取られて、排外的な忌避感にも火をつけ、「民法出テテ忠孝滅フ」というキャッチフレーズが反対派の心情をおし拡げました。

結局、この民法の施行は延期され、日本人起草者によって新たに作られる結果になりました。すでに留学から帰国していた陳重は、1893(明治26年)に3名の民法の起草委員の一人に選ばれました。

(3)日本の法学の近代化に寄与

陳重は、留学生時代に、当時のヨーロッパの先進的な法学を学びました。またドイツにも留学し、比較法的な視点での法的思考力も身につけました。

日本の民法典の起草は、真っ白な紙上に日本の民間社会の営みのルールを書き記すという、困難で緊張を伴う作業だったはずです。

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法典論争の経緯を踏まえると、日本の伝統や歴史を尊重した内容にしなければなりません。しかし、それでは西洋式の近代的な法典を整備するという、明治政府の政治的課題との整合性について、葛藤を抱えることになります。

民法の起草についてまわった問題を解決するために、陳重は課題設定に工夫を凝らした形跡が見えます。陳重の課題設定の源は、陳重が留学時代に修得した当時最先端の法学に基づく法的思考にありました。陳重は独自に課題を設定し、それを実務的に解決することによって、日本の法学の近代化に寄与しました。

この経緯を見ていくと、陳重が単なる学問に奉じる理論家ではなく、日本が近代国家としての骨格を成す上で、現実に存在する実務上の葛藤を引き受け、理にかなった課題に取り組むリアリストであったという人物像が浮かび上がってきます。

その経緯を少し詳しく述べます。

 

3 日本の法学の近代化

(1)江戸幕府と西洋諸国との駆け引き

まだ日本が江戸時代だった頃、1857年にアメリカの駐日領事ハリスが将軍家定に謁見して米大統領の親書を渡しました。ハリスは幕府の重臣に通商条約の締結を説きます。

幕府側の役人は、ハリスに通商条約の前提知識を質問しました。そのやりとりの際に「万国公法」の知識がなければ、西洋諸国との駆け引きができないことが分かりました。「万国公法」は今でいう国際法のことです。

西洋と駆け引きするためには、西洋世界がどのような秩序で成り立っているかを理解する必要があります。西洋を理解することが早急に取り組むべき課題として浮上したわけです。

おそらく、当時の幕府の役人には、「近代化」という観念はなかったでしょう。ともあれ、開国に向けた未曾有の時局に対処するためには、ともかく西洋世界のルールを理解しなけれならない。この痛切な自覚が芽生えた時、西洋の法と法学を知ることが基本的な課題として位置付けられる時代が幕を開けます。この後、幕府は二人の留学生をオランダに送り、西洋の学問知識の修得にあたらせました。

今では「近代」と呼ばれることになる新たな時代は、時局を背負った実務家の痛ましいほどの危機意識とともに始まりました。おそらく、当時の幕府の役人は、西洋世界の大局をつかんでもいなければ、政治の原理にも理解が及んでいませんでした。「万国公法というものがあるらしい」「これを理解しなければ西洋諸国とは交渉もままならないだろう」「まずは万国公法を理解することが先決ではないか」

近代の始まりを画する初歩は、「近代」の自覚もない、ただのよちよち歩きでした。日本の近代化が辿ったのは、面前の小道を伝って大路に出る道筋でした。大きな理想を描いたキャンバスの前で酔いしれるのではなく、目の前の現実的問題に対処するために一歩をしるす行動力が、近代化には不可欠だったのです。

(2)法学の課題の進化

二人の留学経験を経て、単に国家の仕組みに法学を移植するのではなく、西洋の歴史と文化を深く理解することが、法学研究の大前提であることがわかりました。そして、西洋並みの教養知識を踏まえ、西洋と対等の水準で法学研究ができる人、つまり法学者の育成が次なる課題として絞り込まれました。

そして、明治政府がその課題を引き継ぎ、貢進生制度を開始しました。この制度によって陳重は歴史の表舞台に現われます。

陳重は、留学中に当時ヨーロッパで注目された「歴史法学」の洗礼を受けます。法とは何かをどう考えるかによって、法学のスタンスは異なります。歴史法学は(ポエタ流の解釈では)、法はその国の文化や言語の進化の歴史に根付いたものであり、理想的な法が常時存在するのではなく、法はその国が歴史的に漸進する過程において変化しながらあるものだと考えます。

明治期における大きな政治的課題は、不平等条約の改正でした。改正のためには日本が西洋並みの近代化と国力増強を成し遂げる必要があると考えられていました。そのため、法典整備が不可欠な課題であると認識されました。

陳重は、歴史法学に基づけば、日本にも高度な言語の文化があるから、西洋にも負けない法が存在しうると考えました。しかし、西洋式の法典整備は、急を要する課題であり、早期に成し遂げなければならないところに、歴史法学的な考え方とのぶつかり合いがあります。なぜなら、歴史法学の考え方では、法は日本の歴史的な成熟につれて整備されるものと考えるのが普通だから、法典整備には時間がかかって当たり前だからです。

法典論争後、陳重は民法の起草者として、この難題に取り組みます。

(3)穂積陳重の課題設定

陳重は、歴史法学の理論と法典整備の実務的要請とのぶつかり合いに、どのように取り組むべく課題を見出したのでしょうか。

  • 日本の伝統的制度に、歴史的「進化」の一過程としての位置付けを与える
  • 現時点の伝統に根付くものとしての法典整備を歴史法学の考え方で正当化する

日本の伝統を活かした法整備としつつ、将来的には西洋並みの発展段階に至る可能性を残す取り組みとして、法典整備を位置付ける、陳重の腐心を見ることができます。理論家としても実務家としても面目躍如のアプローチであったでしょう。

 

4 学者としてのリアリズム

(1)歴史的検証を要する結果

一見すると、陳重のアプローチはとりつくろいのようにも思えます。しかし、結果から見ればどうでしょうか。陳重が起草した明治民法は、現代に至るまで骨格はおおむね維持されています。時代の移り変わりに連れて、大改正は何度かありましたが、大きな骨格と基調は維持されているのではないでしょうか。

あたかも、明治民法が日本という国の漸進的な発展に連れて進化してきたかのようです。慎重な検討が必要だとは思いますが、陳重が採用した歴史法学的なアプローチが、結果的には正当だったと考えることができるのではないか。

こうして考えると、陳重のとったアプローチは、単なるとりつくろいではなく、歴史的な風雪にも耐えた賢明な措置だったのではないでしょうか。

今後、なぜ日本民法の法的安定性が長期にわたってほぼ維持されてきたのか、を検証してしかるべきではないか、と思います。検証の価値があるほどの結果を生んだところに、陳重の起草者としての課題設定の的確性が垣間見えます。

(2)「その場しのぎ」との違い

陳重のとったアプローチは、よくある「その場しのぎ」とは、どこが違うでしょうか。陳重は、法典整備という実務的要請と歴史法学という理論的立場の対立を、知恵によって発展的に解消しています。どちらか一方の立場に逃げ込むのではなく、両方の立場の目的を抽出し、両方の目的にかなう第三の道を見定めました。

陳重の行った、いわゆる弁証法的な問題解決は、日本の法の歴史が向かう先を的確に方向付けたのではないでしょうか。

陳重が取り組んだ法学研究の底の深さと視野の広さが、うかがえる点だと思います。陳重は、相当の研さんを積んでいます。詳細は述べませんが、陳重は世界的な水準にも伍する学識を認められた法学者でした。学識を深める努力なくして、この結果はなかったのではないでしょうか。西洋と対等の水準で法学研究を行う法学者を育成する、という当初の課題は、穂積陳重という一人物において、達成されたと言えるでしょう。

(3)実務的制約との戦い

陳重が起草した新民法典が施行されたのは1898年です。この年が、不平等条約改正の条件である法典整備の期限とされていました。

とにかく万国公法を理解しようとして、二人の留学生がオランダ留学の機会をつかんだのは、1862年です。新民法典の施行まで、36年の歳月でした。

西洋の法の考え方を理解していなかった状況から、陳重が当代一流の法学者として起草した民法が施行されるまでの36年に、日本の法学の近代化のプロセスが凝縮されていたと言えるでしょう。

かかった時間の長短を言うつもりはありません。ため息が出るのは、この間のゴタゴタが多いことです。そして、なおかつ、課題の一本線は途絶えることなく続いていました。1911年には不平等条約の改正は完全な目的を遂げます。

民法典の起草にあたって陳重は、期限の問題もあり実務的な要請に応える義務を背負っていました。法学者という理論家でありながら、実務的制約の中でその後の日本民法の骨格を作った陳重の懸命な姿が思い浮かびます。

陳重は晩年、学究に専念できる立場を希望しましたが、国家的要請のもとで顕職に就くほかなく、構想中の著書はほとんど未完のまま死去します。

 

5 最後に

(1)歴史の大河

明治の近代化のプロセスをたどってみると、一人の人間が目の前の初歩的な課題に取り組んだ結果、いつの間にか大きな歴史の大河に合流する様子が浮かびあがってきます。

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とはいえ、陳重には自分が国家的な課題を背負っている自覚はあったでしょう。しかし、想像ですが、陳重は留学先で日々の研鑽を積む途中で、「どれとどれが将来役に立つ文献だから読んでおこう」という目算を常々働かせていた、とは考えにくいです。陳重は、西洋式の法的思考を身につけるという一貫した課題認識のもとで、来る日も来る日も目の前の研究に精進するほかなかったのではないでしょうか。

その積み重ねが、結果的に、法典整備に取り組む上で、実務的要請と理論的要請のぶつかり合いを解決する底力になったのだろうと思います。

(2)まとめ

  • 日本は西洋の法学の受容を近代化の課題にすえた。
  • 陳重の民法典の起草は、理論と実務とのぶつかり合いを抱えていた。
  • 陳重は西洋の歴史法学を日本の現状に柔軟に当てはめ直し問題を解決した。
  • 陳重の起草した民法典は、現代まで法的安定性をおおむね保持していると思われる。
  • 陳重の歴史法学的アプローチの歴史的検証が待たれる。

<主要参考文献>

内田貴『法学の誕生:近代日本にとって「法」とは何であったか』筑摩書房、2018年

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