課題の教科書

Critical Realism for All Leader

なぜアラビアのロレンスといえども挫折したかを考えた|パリ講和会議

こんにちは。ポエタです。

今回は事例編です。

目次です。 

1 はじめに

前回の事例編でT.E.ロレンスのアラブ軍活動の前期の課題を批評しました。

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ポエタは、後期は、ダマスカス入城までを批評しようと考えていました。しかし、後期は実は、あまり面白くありません。

アカバ攻略後、アラブ軍はダマスカスを目指します。アラブ軍は、エジプト方面からシリアに向けてパレスチナを進軍する、英国軍の右翼を担います。アラブ軍は、事実上、連合国軍(英国側)に属する軍隊として動きます。

ただ、この時点でアラブ軍は、国家としての独立は果たしていません。ですので、正式な国家の軍隊ではありません。この点、国家としての資格を得ることがアラブ軍の軍事行動の目的ですが、軍事行動の根拠となる国家主権はないわけです。これがアラブ軍の根本的な矛盾です。ロレンスは、この矛盾を解決するために、アラブ軍が自国の領土を自ら制圧する軍事的な課題に傾注しました。

アカバ攻略後のアラブ軍は、英国のアレンビー将軍の指揮下に入ります。ロレンスは、その著書『知恵の七柱』で、逐一命令に服従して行動すればよい兵士的な身分の方が、よほど気楽だ、と心根をこぼしたことがあります。『知恵の七柱』の続きを読むと、アレンビーの指揮下に入ることで、ロレンスの心理的な重圧が和らいだ印象を受けます。

アラブ軍は、英軍から兵器や物資の支援を受けました。空軍の支援も受けました。それまでロレンスは、ずっとラクダに乗って砂漠を移動していましたが、長期間の騎行は、足腰にすり傷ができて、苦痛をもよおします。英軍との合流後は、ロールスロイス車に乗って移動することが増え、肉体的負担は減ったと思われます。

アラブの反乱の後期では、ロレンスの軍事的活躍は絶頂期を過ぎ、英国軍人(?)として組織的に行動する、一種の安定期に入ります。『知恵の七柱』を読んでいると、あまり劇的という活躍もなく、ダマスカス入城に至った感がします。苦労はしてますけどね。

では、ダマスカス入城で、ロレンスの課題は達成されたのか? クライマックスは、戦争終結後に控えていました。先ほど言った、アラブ軍が抱えていた根本的な矛盾は、軍事的な課題だけではなく、政治的課題にも置き換える必要があります。なぜでしょうか?

軍事的な課題は、アラブ軍が自ら領土を制圧することでした。それはアラブの独立国家建設のための必須の条件です。しかし、アラブ独立のためには、それだけでは不足です。目的を果たすためには、実際に、連合国に対してアラブの国家独立を承認させる政治交渉が必要です。

ロレンスの真の目的意識は中東の平和です。今回の記事では、単なる軍事戦術家の枠にとどまらない、ロレンスの政治活動を追いたいと思います。その結果は、ロレンスの大きな挫折でした。

 

2 ロレンスの関わった政治交渉

(1)ロレンスのダマスカス辞去

1917年10月、ロレンスとアラブ軍は、市民の歓喜とともにダマスカスに迎えられました。ダマスカスの解放によって、オスマン帝国の敗北は決定的となります。ロレンスは、オスマン帝国によって破壊されたインフラや治安、衛生状態の回復に務めます。市政を回復するために、旧政府の職員を引き続き登用するという英断が行われます。

フェイサルは、アラブ人に交戦国としての資格を認める英国からの公電を受け取りました。これを見届けたロレンスは、アレンビーにアラビアからの退去を願い出ました。自分がいない方が新法の実施は容易になる、という理由です。退去を認められたロレンスがダマスカスを去ったのは、入城のわずか3日後です。

随分とあっさりとした引き際です。『知恵の七柱』の記述は、ロレンスのダマスカス辞去で幕を閉じます。しかし、ロレンスは単なるゲリラ戦参謀ではありません。これが全ての終わりではありませんでした。

ダマスカス入城でロレンスの支援した軍事行動はいったん終了しました。しかし、アラブ軍の根本的矛盾はまだ解決していません。連合国陣営によるアラブ独立国家の領土確定に関する承認こそが、まさに次なる課題として浮上したわけです。ロレンスはパリ講和会議で暗躍します。

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(2)イギリスが出した協定・宣言の数々

ロレンスは、講和会議の前提となる、アラブ軍の軍事的実績を生み出すのに功績がありました。しかし、それで「めでたしめでたし」と言って腰を落ち着かせないわけです。

ポエタは考えます。ロレンスが、あっさりとダマスカスを辞去したのは、見事な引き際です。その身の処し方は、気分の問題ではなく、合理的な判断だと思います。

ロレンスは、軍事的課題を既に達成したから、この地域にいる必要がなかったのだと思います。これまで、ロレンスが砂漠地帯の活動にどっぷりつかった狙いは、戦後交渉を見据えた既成事実の形成に他なりません。ロレンスが真の課題を射抜く視線は、すでに国際政治の交渉のテーブルに移っていました。ダマスカスに居続けても、次なる課題に取り組むことにはならない。

戦後交渉を行う上での前提条件は、各国・各軍の戦果です。それといわくつきの諸協定・宣言です。それ以外に、各人の間で陰に陽に張り巡らされた、個人的な約束事だったでしょう。

当時の英国が結んだ協定類は次の4つでした。

   英国はアラブ民族に対し、戦後のアラブ国家設立承認を約束した。

   英仏露でフサイン・マクマホン協定の範囲を秘密裏に制限した。

  • アラブ7人委員会への保証(=C)

   英国はアラブ民族が軍事的に制圧した地域を独立国として承認すると保証した。

   英国は、パレスチナユダヤ人が民族的郷土を設立することに賛成した。

A文書とB文書がバッティングする問題は、既に論じました。冒頭に引用した記事に詳しく書きました。

A文書とB文書との間の整合問題は、Cの原則を樹立すれば、アラブ軍の進軍がA帯を北限とすることで、とりあえず何とかなりそうです。A帯であれば、かろうじてアラブ国家の建設は認められる余地があったからです(実際はフランスのダマスカス進駐で、かなりもめますが)。いずれにしろ、A文書、B文書、そしてCがからみつく問題の解決を進めるための事実関係は揃っていたと思います。ロレンスが作り上げた軍事上の既成事実とフェイサルに念押しした「自由の原則(自由は自分で取る)」が、解決の土台であったと思います。

そこに水をさす宣言なのが、D文書です。これがなぜ問題か。

D文書はユダヤ民族の権益を認めていますが、ユダヤ民族自身が軍隊を組成してパレスチナに自ら攻めよせたわけではありません。エジプトから進軍した英国軍がパレスチナのガザ、エルサレム、イェリコという地域を解放していったのです。「なぜユダヤ人はパレスチナ地方に自分たちの権益を確保する大義名分があるのか」と、アラブ民族がつっこみを入れようと思えば、入れられたかもしれない。ここに難しい問題が生じるわけです。

ですが、結論を先に言うと、D文書と原理原則との間の不整合問題は、最終的には、ロレンスの「自由の原則」論を犠牲にする形で解決されました。そのことを見ていきましょう。

(3)パリ講和会議とその後

戦後交渉の舞台は、パリ講和会議です。パリ講和会議は、米国のウィルソン、英国のロイド・ジョージ、仏国のクレマンソーの三巨頭が主導しました。ロレンスは、会議期間中、三巨頭の私室に頻繁に出入りし、接触をもっていたと言われています。

ロレンスはダマスカスを首都とするシリアを、フェイサルの統治に帰することを意図していたようです。これがシリア地域を支配下に置こうとするフランスの意図と衝突しました。

パリ講和会議はもめにもめます。結果は会議後にもちこされます。次のような案に落ち着いたようです。

この結果、アラブ軍は、ダマスカス、アレッポ等の4都市を保有するだけになりました。フランスとしては、英国がメソポタミアを得るなら、シリアを確保したい。そういう綱引きであったようです。ロレンスの構想は実現しませんでした。

そして、アラブ民族はこの結果に不満を覚え、抗議の声をあげます。ダマスカスに会議を招集し、フェイサルはシリア王、アブドゥッラーをイラク王であると宣言しました。英仏は、あわてて一定の譲歩をしましたが、イラク全土で反乱が起こりました。

そして仏国は、過激派の鎮圧を名目に、ダマスカスを占領しました。

ロレンスは、新聞紙上で、この中東問題について意見し、解決策を提言しました。その成果かどうかはわかりませんが、英国は、国内の世論におされて、次善の策を練りました。英国はチャーチルを植民省のトップに据えて事態の打開を図ります。ロレンスはチャーチルの政治顧問に起用されました。そして、1921年のカイロ会議で、英国は、フェイサルをイラク王とし、アブドゥッラーをトランスヨルダン王としました。一方、老王のフサインは、結果的には、ヒジャーズを治めることになりました。

 

3 考察

(1)ロレンスのアラブ国家の構想は何が問題か

パリ講和会議では、ロレンスは英国外務省から東方問題顧問として正式に交渉全権の一員に任命されました。それに先立って、英国政府の東方問題委員会は、ロレンスを招き意見を質しました。そこでロレンスは、あろうことか、自由の原則と微妙に矛盾しかねない提言を行っています。

それは、フサインの子息三兄弟をあげ、シリアはフェイサル、上メソポタミアはザイド、下メソポタミアはアブドゥッラを王とするアラブ国家の構想です。

ポエタは考えます。一見すると、アラブ民族の主張が通るし、「自由の原則」も尊重しているから、よいように思えます。しかし、これが微妙によくない。

フェイサルが、シリア王となるのは、自ら勝ち取った領土ですから、この戦争の底流に流れていた「自由の原則」を実現する上で、至当な内容です。しかし上下メソポタミアは、アラブ軍が進軍して制圧したわけではありません。

サイクス・ピコ協定では、メソポタミアの主要な地域は、英国の支配領域として認められていました。だったら、英国が認めるだけだから、それでよいではないか。そう思う理由はわかります。しかし、アラブ軍が自ら勝ち取っていない地域を領土として認めることは、「自由の原則」に対する例外を設けたとも解釈できる微妙な措置です。

ポエタは考えます。ロレンスが活動の底流に据えた「自由の原則」は、理想性において際立っています。ロレンスは単なる安物の理想論として原則論を唱えたわけではないでしょう。しかし、この種の原則論は、「自由」という西洋人にとって思い入れたっぷりの概念で出来上がっているために、金科玉条としての印象は色濃かったと思います。

この理想の極みとしての「自由の原則」に、あえて例外を設けることには、何らかの相当な根拠がなければならないわけです。なぜメソポタミアまでをアラブの領土に認めるのか、という根拠です。

しかも、英国は「自由の原則」をCの保証として、言葉を変えて明示しているわけですが、これがD文書と矛盾しかねません。D文書は、ユダヤ民族にパレスチナ地域での郷土建設を認めたわけですが、ユダヤ民族はこの戦争で、パレスチナを自ら戦って占拠したわけではありません。そのユダヤ民族に郷土建設を認めることは、「自由の原則」の破綻を意味します。

つまり、英国(あるいはロレンス)の「自由の原則」論は、それを批判的に検証してみると、色々とアラがあったわけです。ロレンスのアラブ国家の構想も、そういう批判的な分脈で検証してみると、「自由の原則」の実践が不徹底なのではないか、という疑いを持たれかねないわけです。これが、ポエタの考える、ロレンスのアラブ国家構想の問題点です。

英仏両政府が、ロレンスのアラブ国家構想に沿った共同声明を発すると、英仏内部から反対の声が上がりました。パリ講和会議は、始まる前から混沌としていました。ロレンス自身は、「こんどは負け戦であることを覚悟していた」(中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.164)と述べたと言われています。

(2)D文書と「自由の原則」論との間の不整合問題

このように、英国は、パリ講和会議の開始において、すでに論理的なジレンマを抱えていたと思われます。「自由の原則」論の論理性を徹底すると、D文書を破棄しなければならない。一方、D文書を尊重すると、「自由の原則」を根拠としたフェイサルのシリア王国建設が危うくなる。

その後の交渉も含めた結果としては、フェイサルのシリア王国建設は実現しませんでした。英国は、カイロ会議で状況の打開を試み、ようやくのところ、フェイサルをイラク王とし、アブドゥッラーをトランスヨルダン王としました。これは植民相のチャーチルの成果であり、ロレンスは政治顧問として動いたようです。

ですが、結果から推定すると、英国は「自由の原則」の徹底を諦めることで、D文書の趣旨を尊重しながら、最大限アラブとの約束を果たそうとする、政治的妥協に動いたように思われます。

こうして見ていくと、ダマスカス入城後の、国家独立と領土の配置は、諸協定・宣言をベースに、妥協に妥協を重ねた結果におさまったと言えるでしょう。

それで、ロレンスの掲げた普遍的な「自由の原則」は、台無しになったわけです。その遠因は、ロレンス自身が「自由の原則」を必ずしも徹底しない提案をした点にあると思います。

ただ、英国が最初から、シリアのアラブ領有は認めて、メソポタミアのアラブ領有の方は認めなかったとしたら、どうでしょうか。王座を期待したアブドゥッラー達は怒ったかもしれない。ロレンスが水面下でアラブ側と、どのような事前交渉をしていたかによって、アラブ側の反応は異なっていたと思います。残念なことに、そこまで十分調べきれていません。

(3)アラブ民族の国家独立の悲願達成

カイロ会議における打開策を経て、イラク、トランスヨルダン、そして結果的にヒジャーズ、この圏域において、アラブ人の独立国家は誕生しました。しかし、これは暴動や進駐が起きた結果実現した姿であり、不規則な経過を辿った結末でした。

その後1936年には、イラクで軍事クーデターが起こります。イラクではイギリスにかわって軍部の影響力が増します。

ヒジャーズ王国は、1924年に起きたイブン=サウードによる攻撃で倒されます。

つまり独立したアラブ国家は、政変によって主人公を入れ替えながら、存続の道を歩んだわけです。主人公は交代しながらも、アラブ民族独立の約束は果たされた、と言うべきでしょうか。

(4)ロレンスが取り組んだ課題の達成評価

ロレンスが取り組んだ課題と、結果を整理します。

<課題と達成状況>

  • 課題①:アラブ民族の反乱支援(軍事面)

   オスマン帝国に打撃を与え、敗北に追い込む結果を得て、狙いは達成された。

  • 課題②:アラブ民族の独立国家の建設支援(政治面)

   結果的にアラブ民族の独立国家誕生は成し遂げられた。

ロレンスの課題を並べてみると、二つとも達成されたことになります。しかし、ロレンスのその後の人生には、ある種の虚無感が伴います。意気揚々とした心境ではなかったようです。

パリ講和会議を経た後、主張が通らなかったアラブ民族はイラクで反乱を起こしています。フランスは、ダマスカスに進駐しました。つまり戦後も混乱は長引き、中東に、真の平和がすぐに訪れたわけではない。ロレンスが、アラブ国家建設を課題として取り組んだのも、英国が現実の平和を実現する統治責任を果たすことが狙いだったと思います。その真の狙いにおいて、ロレンスの本願が達成されたわけではないのです。

また、先ほど言ったように、「自由は自分でとる」「自国の領土は自分で勝ち取る」という、ロレンスの活動を根底で支えていた原理原則は、戦後の混乱と政治交渉において、無力を呈しました。

ロレンスは、単なる理想家ではありません。先々を見通した、リアリズムを実践しようとした人です。ロレンスにとって、「自由の原則」は、政治の理想、つまり平和を実現するための、合理的な手段だったでしょう。その原則が骨抜きになったことについて、ロレンスは大きな挫折感を感じたのではないでしょうか。

 

4 最後に

(1)「自由の原則」の不徹底

メソポタミアもアラブ国家に含めて考えるロレンスの構想は、「自由の原則」の論理的意味においては、不徹底でした。しかし、本来それはイギリスの裁量の範囲で、追加的にアラブに領土を認めただけだから、他国からとやかく批判される筋合いはなかったはずです。

ところが、「じゃあバルフォア宣言はどうなんだ?」と突っ込まれたら、英国の裁量をどうこう言う以前の、論理的破綻が浮き彫りになるわけです。「自由の原則」は、諸協定・宣言全体の中で、論理的な整合性がとれていなかったことになります。

ロレンスが、最初から負ける見通しをもっていた理由もわかる気がします。おそらく、メソポタミアのアラブ領有を最初から引っ込めていたら、アラブ側が納得しないのが、ロレンスにはわかっていたのではないか、と思います。だから、ロレンスは、アラブ国家構想をダメ元で言ったのではないでしょうか。

(2)「政治家」ロレンスのリアリズム

ロレンスは、2つの課題は一応達成しました。しかし、原則論的に狙い定めた目標は達成し得なかった。この結果をどう考えるべきでしょうか。

ロレンスは、趣味でアラブの反乱を支援したわけではありません。あくまで仕事として取り組んだわけです。いくらロレンスでも、職分を越える働きはできなかった。

ロレンスの2つの課題は、どちらも文言上は達成されています。しかし、真の狙いは達成されなかった。その理由は、彼の職分が、基本的にはあくまで将校であり、政治家ではなかったからだと思います。

軍事活動中の主役は軍人です。しかし、戦後交渉における主役は政治家です。戦争の狙いを設定するのは、政治家の役割です。

ロレンスは、原理原則を重視しました。原理原則の筋の通った効力によって、中東の平和を実現することに狙いを置きました。しかし、「自由の原則」は、バルフォア宣言(D文書)と矛盾していたわけです。結果的に、英国が、バルフォア宣言(D文書)を反故にせず、「自由の原則」を引っ込めることになったのは、ロレンスの原則主義の完全な敗北でした。

政治家達にもリアリズムがありました。諸協定・文書という前提条件を踏まえなければならないという政治的現実です。政治家の作り上げた政治的な既成事実に対して、ロレンスの作り上げた軍事的な既成事実が挑んだわけです。この勝負にロレンスは勝てなかった。政治権力の伴わない原則論が敗北したのです。ポエタは、ここにロレンスの政治力の限界を見ないわけにはいきません。

ロレンスの挫折の経験は、私たちに大切なことを教えてくれます。いかに有能なリアリストでも、別の背景を形づくっている現実には負けることがある。原則論は権力を味方にしなければ政治的現実には通用しない。

しかし、ロレンスは、二つの課題は達成しました。将校という職分においては、最大限の成果であったと言えるでしょう。何のための苦役であったか、という煩悶は、多分ロレンス本人しか味合わない苦しみでしょう。歴史は人間の労苦を素通りします。しかし、ロレンスがその後味わい続けた苦悶は、仕事をやり切った者にしか与えられない報償です。ポエタはそう思います。

(3)まとめ

今回のまとめです。

  • ロレンスは戦争終結後、素早く新局面である政治交渉に乗り出そうとした。
  • ロレンスが抱いた戦後の中東政策の狙いを支えた「自由の原則」論は、英国が関与した諸協定・宣言全体の中では、論理的矛盾を秘めていた。
  • ロレンスは、職分においては最大限の功績をあげたが、政治的現実との間で、リアリズムの限界が生じたと思われる。
  • 我々も、課題に取り組む上では、いかに有能でも原則論だけでは成果は得られず、原則論は権力によるバックアップを必要とすることを、リアリズムの条件としてわきまえよう。

ロレンスの罪と砂漠|除隊後の栄典拒否と心象風景 - 課題の教科書

<主要参考文献>

中野好夫アラビアのロレンス岩波新書岩波書店、2013年

T.E.ロレンス『知恵の七柱3』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1989年

 

ポエタ

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