課題の教科書

Critical Realism for All Leader

アラビアのロレンスが『知恵の七柱』で語った軍略+講和奮闘の全体像

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こんにちは。ポエタです。

アラブの反乱を支援した英国軍将校のT.E.ロレンス

その足跡は、書籍や映画でよく知られています。

その華々しい軍歴は特に有名です。

今回の記事では、ロレンスの軍歴に加えて、戦後の講和会議で見せた奮闘とその限界を詳しく話します。

 

1 はじめに

T.E.ロレンス(1888-1935)は第一次大戦の頃の英国軍将校です。イギリスと対立するドイツの同盟国であるオスマン帝国に、側面から打撃を与えるため、アラブ民族の反乱を現地で支援しました。俗に、「アラビアのロレンス」とも呼ばれます。その軍人としての活躍は、映画『アラビアのロレンス』で描かれています。

ロレンスは、英国の国益を追求する職責を負いましたが、本人が戦術を立てて支援した部隊は異邦人達です。軍事作戦は、兵士が命を賭するに値するものでなければ成功は覚束ないでしょう。英国軍将校でありながら、アラブ人達の作戦遂行の動機を確かなものとするのに、どれほどの苦労があっただろうか、と思います。

ロレンスは軍人でした。軍人が政治的取引に加担したとすれば、その代償はきっと大きいものになります。しかし、政略的前提の乏しい軍略は、正しくても意味をなしません。軍事的作戦に究極的意味を与えるのは、政治です。

ロレンスは、元々矛盾で出来上がった任務を遂行するにあたって、政略的軍人となる矛盾を自らの身に加えたのか、それとも政略なき軍略の危険に、その身をさらし続けたのか。いずれにしろ、この矛盾に満ちた任務を終えた男に、その後、さらなる活躍に投ずることのできる、資源量はいかほど残っていたでしょうか。

ロレンスは、退役後わずかにして、運転するバイクの事故で死亡しました。四十六才だったと聞いています。当時は大戦間期であり、まもなくナチスドイツの台頭がヨーロッパを揺るがすことになります。ロレンスは、ヒトラーとの直接交渉を担う話を持ちかけられ、昼食を約束する返電のために赴いた郵便局からの帰途、事故に遭遇しました。

その後、第二次大戦の戦禍を首相として戦い抜いたチャーチルは、生前のロレンスとは知己であり、極めて高い評価を与えています。ロレンスは、使い古すにも、死なすにも惜しい男であったに違いありません。

ロレンスの傍らには、未来の優れた英国指導者と、来たるべき国難が、両方控えていました。ロレンスはなぜ、死ななければならなかったのか。

ロレンスの写真を見れば、この男に英国式の軍服は似合わないと思います。アラブ式の格好をして、短剣を腰に刺す方が様になります。ロレンスは軍務のみに人生を捧げたのしょうか。それとも政略を含めた構想を描き、巧みに立ち回ったのでしょうか。

堂々と異邦人の身なりをして、満足気な表情で写真に収まるロレンスは、仮装すらものにする男であったかもしれません。

ロレンスは、アラブの反乱を支援する任務を果たした後、空軍への入隊を希望しました。偽名での入隊を試みたようですが、素性が露呈し、除隊しています。完全に除隊した後は、隠棲状態になったようです。ロレンスの、当時の心象風景は、肉声では聞こえてきません。

ロレンスは、アラブからの帰国後、勲章の授与や栄職の打診を断ったそうです。ロレンスが著した自伝的著書『知恵の七柱』に目を通すと、冒頭で、任務中正気を失う理由を、砂漠の気象条件に結びつけています。

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時に残虐行為を働いたとされる身上を意識したのでしょう。その婉曲的な説明は、見苦しく弁解がましいのではないか、と批判することもできます。しかし、何より社会的名声への道を峻拒した事実は、言い知れぬ虚無に立ち至った人間の一面をのぞかせていると思います。

ロレンスは、軍務に従事していた時期に、現地で赤痢と思われる病に臥しました。病臥の間、頭を巡らし、それまでの経験と知識を総ざらいし、戦術を見直しました。新しく、大局を踏まえて考えた戦術は、具体的であり、かつ現実的でした。

ロレンスが、ヒントを得たのは具体的事象であり、取り組んだのは具体的課題です。病の最中も、具体的事物は周囲に氾濫していました。引率する部隊中の人間同士でトラブルが起き、死者が出ました。ロレンスは、指揮統率上の制裁の必要性と、現実の作戦遂行の都合とを鑑みて、自ら加害者の戦闘員を処刑しました。

この事実を聞けば、白衣の装束に身を包んだ紳士が、自らの判断で法によらず人を処刑するという事態の異様さに、違和感を感じる人は多いかもしれません。この事実の残虐性を批判するとき、目の前に居並ぶのは、英勇的所業を成した人物の影に潜む罪悪と、もう一つ、戦争の現場で後を絶たない理路整然とした過ちです。

ロレンスは何度考え直しても、同じ判断をしたかもしれません。そして、「違う判断をしたなら、違う過ちをしただろう」と言ったかもしれません。ロレンスが、後悔しても仕方がない、と思い定めたとしたら、その視線の先には砂漠しかなかったのではないでしょうか。砂漠は水も塵も血も跡形もなくします。

戦争に完全な勝者はいません。ロレンスは、言い尽くせぬ虚無を抱えて英国に帰国したと思います。そして自叙伝『知恵の七柱』の執筆は、ロレンスにとって、どんな栄典の拝受より確かな治癒法であったでしょう。ロレンスが婉曲的に弁明した中で言挙げした砂漠の気象条件は、この男の帰国後の心象風景の言い換えではなかったでしょうか。後悔がなければ、虚無を何に仮託して語るでしょうか。心の行き場をなくした男の唱える詩を聞く思いがします。

砂漠の荒野を去り、隠棲した孤独な戦略家の頭上で、虚空にはどんな星が輝き、運命を司っていたでしょうか。

今回の記事では、ロレンスのアラブ軍の支援任務と戦後のパリ講和会議をめぐる活動と、ロレンスの生き方を追います。

 

2 アラビアのロレンスが向き合った根本問題

オスマン帝国は、今のトルコですが、当時はシリアからアラビア半島まで勢力を伸ばしていました。アラビア半島には、アラブ民族がいました。アラブ民族は、アラブ地域におけるアラブ民族による独立国家の設立を目標にかかげ、オスマン帝国に対して反乱を起こしました。

ロレンスは、イギリスから、アラブの反乱の支援を命じられました。オスマン帝国に側面から打撃を与え、イギリスの戦争を有利に進めるのが狙いでした。

ロレンスが英国の将校として、英国の国益を追求するのは当然でした。しかし、アラブの現場で円滑に活動するには、アラブ人の信頼を得なければなりません。この矛盾はロレンスに大きくのしかかったはずです。ロレンスは、身の上に迫る矛盾を解決しながら任務を続けるために、明確な思考ロジックを構築しなければならなかったでしょう。

ロレンスの半身はアラブの砂漠にありました。そして、もう一方の半身は、国際政治の渦中に置かれました。ロレンスが活動する上で、始終脳裏を支配していた根本問題は2つあったと思われます。

  • 英国がアラブ民族との約束と矛盾する秘密協定をフランスと結んだ問題をどう考えるか。
  • 自分が本当に解決すべき課題をどこに見定めるか。

まず、2つの根本問題をT.E.ロレンスがどう考えたかについて、見ていきたいと思います。ロレンスが、いかにとことん課題を追求する人だったかを語りたいと思います。その中で、ロレンスが、英仏がいつの間にか結んでいた秘密協定に振り回されながらも、決心する姿は、感動的ですらあります。

 

3 アラビアのロレンスの取組みの前提条件

(1)アラブの反乱に至る経緯

T.E.ロレンスが活動した時代は、第一次世界大戦当時です。1914年6月に、オーストリアの皇子が、セルビア人青年に暗殺されました。これを機に、オーストリアセルビアに宣戦布告します。セルビアを支援していたロシアは総動員令を発しました。するとドイツはロシアとフランスに宣戦布告しました。戦争の火の手は一気に広がり、ヨーロッパ中のほとんどの国が、連合国側と同盟国側に分かれて争い始めました。また、戦争は世界各国にも広がり、第一次世界大戦と呼ばれる規模に膨らみました。

 

<主な戦争参加国>

  • 連合国

   イギリス、フランス、ロシア、イタリア、ギリシア

  • 同盟国

   ドイツ、オーストリアオスマン帝国

 

戦争開始当初は、短期で終結すると言われていました。しかし、塹壕戦が始まると戦局は膠着し、長期化します。軍隊同士の決戦によっては戦争は終結せず、国家の国民の総力をあげた戦争となりました。

総力戦となった第一次大戦には、次のような特徴がありました。

  • 敵国の植民地における独立運動を支援
  • 民意(議会)を介さない秘密協定を締結

当事国は、ありとあらゆる手段を講じて戦争を勝利に導こうとしたわけです。

ロレンスが命じられた、オスマン帝国に対するアラブ民族の反乱の支援は、このような戦争下の要請として課された課題でした。

そして、ロレンスの課題は、秘密協定という全体的枠組みの中で、大きな矛盾を抱えることになりました。

(2)イギリスが結んだ諸協定の表裏

ロレンスがアラビア入りするのが、1916年10月です。

その前の1916年春に、フサイン・マクマホン協定が結ばれます。これは、アラブ民族の反乱を主導したフサイン・イブン・アリーと英国のエジプト駐在高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンとの間で交わされた協定です。

交渉中の1915年10月に英国外務省からマクマホンにくだった訓令の趣旨です。

1.フサインの要求する地域内におけるアラブ人の独立を承認し、支持することを保証する。

2.但し、除外例あり

  • 南北にアレッポ、ハマ、ホムズ、ダマスカスをつなぐ線から以西、地中海岸に至るシリア地方は、これは純粋にアラブ人居住地域とはいえないことと、またそこはフランスの勢力圏という二つの理由で除外する。
  • この保証は、イギリスがフランスの権益を害することなしに行動の自由をもっている地域に限られること
  • バズラバグダッド間のメソポタミアにはある程度のイギリス支配権を認めること

中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.45、より一部要約)

 

この協定は、曖昧な表現を含み、イギリスとアラブ人との関係をこじらせるリスクをはらんでいました。

というのも、最初の1.は、アラブ民族の利益を明言しています。しかし、2.で除外例が、たくさん羅列してあります。

ポエタの注目点です。この協定の問題点は、イギリスが保証するアラブ民族の権益が、「イギリスがフランスの権益を害することなしに行動の自由をもっている地域に限られる」とされている点です。これだと、協定が定めるアラブ人の権益の範囲は、フランスの意向によって、いかようにも変更があり得るということになります。アラブ民族の権益が、いつどのように確定するのかが、はっきりしないのです。

フサイン側も、この協定の不完全さは認識していたようです。トルコとの戦局が待った無しの状態であり、とりあえず協定締結を急いだかっこうです。

一方で、1916年4月からサイクス・ピコ協定が英仏の間で、秘密交渉入りします。この協定は、1916年5月16日に成立しました。以下が、その内容です。

 1.南は今日のレバノンから、ダマスカス、アレッポの線をつなぎ、さらに北してイスケンデロン湾を囲む地中海沿いの海岸地帯と、奥はティグリス河上流一帯から遠くアルメニアに接するあたりまでを含む地域、これを青色に塗って「青色帯」と称し、フランス統治下に置く。

2.バクダッドの北からペルシャ湾に至るティグリス、ユーフラテス流域、これは「赤色帯」としてイギリス統治に予定された。

3.次にアラビア半島部に「A帯」「B帯」を設定して、ここにはアラブ人の独立国家を許すにしても、A帯はフランス勢力下に、B帯はイギリス勢力下に、それぞれ置くことを決定した。

  • A帯:アレッポガリラヤ海をつなぐ線を底辺とし、モズルの東、ペルシャ国境を頂点とする、だいたい横に倒れた三角形の地域
  • B帯:西はガリラヤ海、死海、ガザ、アカバをつなぎ、東は上記赤色帯に接する北部アラビアの大部分を包含する地域

4.ところがその後、英仏側はこれをロシアにも示して、その分前として青色帯の北につらなり、黒海岸のトレビゾンドからグルジアアルメニアに接する一帯を与えると約した。

5.青色帯のアレキサンドレッタ港(現在のイスケンデロン)は自由港とする。

中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.47-48、より一部要約)

 

サイクス・ピコ協定は、アラブ人に対しては秘密とされました。そして、協定協議中は、フサイン・マクマホン協定の担当者だったマクマホンにも知らされませんでした。マクマホンは、サイクス・ピコ協定成立後に、カイロに来たサイクスによって事後通知されたそうです。

サイクス・ピコ協定は、イギリスとフランスとの間の権益をかなり具体的に規定しています。その内容は、フサイン・マクマホン協定の実質的な内容を左右するものでした。それにも関わらず、フサインにも、英国側の当事者であるマクマホンにも、相談、連絡がなかったことが、ひときわだった事実として浮かびあがってきます。

イギリスが結んだ諸協定は波乱含みの内容でした。このことが、アラビアの地で任務に邁進するT.E.ロレンスにも、いずれ問題として降りかかることになります。

(3)T.E.ロレンスの課された課題と目標

T.E.ロレンスに出された課題は、オスマン帝国に対するアラブ民族の反乱を現地で支援することでした。狙いは、オスマン帝国の側面を攻撃し、弱体化させることでした。

英国は、戦争終結後は、サイクス・ピコ協定フサイン・マクマホン協定とが信義則上の矛盾をきたすことは、先刻承知でした。そのことを踏まえると、現地のアラブ人の間に分け入り、個人的信用を作り上げなくては課題に取組めなかったロレンスにとって、この課題はかなりの「むちゃぶり」だったのではないでしょうか。

T.E.ロレンスに与えられた課題の戦略目標が、当初からどこに置かれていたのかは、よくわかりません。戦略目標の代替案としては、3つ考えられます。

 

1.サイクス・ピコ協定の英仏権益地域(赤・青色帯、A・B帯)より南方の地域(アラビア半島)でオスマン帝国を撹乱する。

2.サイクス・ピコ協定で認められた英国権益地域(赤色帯・B帯)まで攻略する。

3.サイクス・ピコ協定におけるフランス権益の地域(青色帯・A帯)まで攻略する。

 

英国の意図の重点は、フサイン・マクマホン協定で、アラブ国家の独立を承認すると約束したが、国家の領域は確定していない点です。おそらく、英国は、アラブ民族が自らの力で獲得した地域でなければ、領土としては認めない所存だったのではないかと思います。

フェイサルとの最初の会見時には、果たして、ロレンスはサイクス・ピコ協定について知っていたでしょうか。ロレンスは、任務から帰還後に執筆した『知恵の七柱』で、こう述べています。

 

「私はそもそもの最初の会見からフェイサルに、自由なるものは与えられるべきものではなく取るべきものである次第を説いてきている。」(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.82)

 

サイクス・ピコ協定は、1916年5月16日に成立しました。フェイサルとの最初の会見の時期は、ロレンスがアラビア入りした1916年10月以降から、フェイサルとの会見を事実として手紙に書いた1916年12月6日以前の間であったと推定されます。

ですので、フェイサルと最初に会見した時点では、サイクス・ピコ協定はすでに成立していたことになります。しかし、ロレンスは、この協定については、知らなかったとされています。

ただ、重要な点は、ロレンスは、「自由は与えられるのではなく取るものだ」と強調している点です。深読みすれば、「アラブ民族は、戦争終結後、自国の領土を主張するには、自らがその地域を獲得していなければならない」と、自力尊重の原則を強調していたように理解できます。

英国人は、原理原則を重んじる風潮で知られます。英国が、サイクス・ピコ協定を背後でこっそり結びながら、平然としていた様は、「自由は自ら取る」という原則論を、究極の道義的拠り所として考えていた可能性はあります。

もしロレンスの課題の目標が、上記の3に置かれていたなら、サイクス・ピコ協定でフランスに約束された権益と、アラブ民族の獲得した領土は重なってしまい問題になり兼ねません。2なら、英国がアラブ民族に譲歩するかしないかの問題です。1なら何の問題もありません。

ですので、ロレンスの課された戦略目標がどこまでだったかは、極めて重要な論点です。

ポエタは考えます。ロレンスの戦略目標は、最初から、はっきりとは決まっていなかったのではないかと思います。

というのも、アラブ民族の装備は旧式であり、ほとんど近代化されていません。また異なる部族の寄せ集めであり、組織立った戦闘には慣れていませんでした。アラブ民族が実際どこまでオスマン帝国と戦えるかは、最初は誰も予想できなかったと思います。

ですから、なおのこと、アラブ民族が自ら獲得した地域をアラブ民族の国家の国土とする、という原則が英国上層部の中では働いていたのではないか。つまり、アラブ民族の領土獲得の実績状況に応じて、可能な範囲で目標を格上げしていくつもりだったのではないか。その上限は上記3のレベルの目標だったのではないか。ポエタは、そのように推定します。

 

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しかし、もしアラブ軍が、青色帯の奥深くまで進軍したら、英国の手に負えなくなります。ですから、ロレンスは任務中のどこかの時点では、正式に英国から進軍の限界についての指令を受けていてもおかしくありません。

実際には、アラブ軍はロレンスとともに、ダマスカス(A帯の端の方に立地)占領まで突き進みます。A帯には入っているので、フランスの権益と重なります。しかし、サイクス・ピコ協定では、A帯では「アラブ人の独立国家を許」してもよいとされていました。

戦後、アラブ民族主義者はシリアの独立を宣言しますが、連合国側の決定で、シリアはフランス統治下におかれます。フランスはシリアに進駐し、市民軍の抵抗を制圧してダマスカスを支配下におさめます。この事実をサイクス・ピコ協定との関係でどう見たらよいかは、興味深いところです。

ですが、まず見ていきたいのは、ロレンスが抱えた重要問題である、以下の2点です。

  • 英国がアラブ民族との約束と矛盾する秘密協定をフランスと結んだ問題をどう考えるか。
  • 自分が本当に解決すべき課題をどこに見定めるか。

 

4 アラビアのロレンスによる課題解決の方法論と真の課題設定

(1)反乱開始からウェジェフ占領まで

1916年6月5日、メッカにいたフサインは、一族を挙げてオスマン帝国に対して反乱を起こしました。イギリスの支援を受けたものの、必ずしも成功とは言えないまま、フサイン一族のオスマン帝国に対する敵対姿勢が明瞭となる結果になりました。

ロレンスは、失敗の原因をアラブ民族の指導性の欠如にあると考えました。そして、アラビアを訪問しました。目的は指導者の見定めです。フサインはすでに高齢でした。そこでロレンスは、フサインの子息に面会しました。アリー、アブドッラー、フェイサル、ゼイドの4名を観察した結果、フェイサルこそアラブ民族の反乱を指導する者としてふさわしい、と決め込みました。

そして、エジプトに戻って、上司に報告します。反乱軍の根拠地メッカを守るためには、フェイサルの側面攻撃によるべきである。

上司は、ロレンスの報告を受け、援助を約束します。そしてロレンスは、ファイサル付政治顧問兼軍連絡将校として、アラブの反乱の支援任務に着きました。

再びアラビアに来たロレンスは、新たな戦争計画の必要性を強く認識します。ロレンスは、オスマン帝国の主力部隊を無視し、オスマン帝国が物資や兵隊の輸送に用いていたヒジャーズ鉄道を側面攻撃する計画を固めました。計画遂行にあたっての重要拠点は、ウェジュフであり、これを占領することに、まず第一の目標を定めました。

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アラブ軍によるウェジュフ占領後、オスマン帝国はメッカへの進撃を断念し、メディナと鉄道の防衛に専念する受動的姿勢をとりました。ロレンスの目論見通りの結果でした。

メディナからの敵部隊退却の報せを踏まえ、英軍は退却する敵部隊を殲滅する要請をアラブ軍に出しました。ロレンスは協力要請のため、アブドッラーのもとを訪問しますが、赤痢にかかり、病臥しました。この病臥の間、ロレンスは自分たちの戦争の指導原則を再考し、実践的な思考を巡らしました。

(2)ロレンスの巡らした方法論の思考ロジック

オスマン帝国に対するアラブの反乱を支援するための方法論を構築した、ロレンスの思考ロジックは、際立ったものでした。その思考は、概略次のようなものでした。

「いまや、メディナを占拠する戦略上の必要性はない。なぜなら、オスマン帝国の兵士を広大なアラビア半島に分散配置させた方が、敵の主力を避けるにはよい。そのためには、オスマン帝国に、メディナまで兵站を伸ばした状態を維持させた方がよい。

オスマン帝国は人を物的資源のように考え、人よりも物資を貴重と考えるが、アラブ軍は、正規兵ではないため、人は物よりも尊い存在であり、情緒的な紐帯で結ばれた組織である。

だから、オスマン帝国には、メディナにせっせと物資を送らせ、その間、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を襲い、敵側に物的被害と改修の手間を与えつつ、アラブ軍は奇襲効果によって人的損害を最小限に抑えるのが得策である。

オスマン帝国帝国主義的な思考につかっているから、広大な地域を一応の支配下におさめればよいと考え続けるだろう。敵側の思考特性を利用し、アラブ軍は、アラビア半島の9割9分を自由に動き回って鉄道を奇襲し、オスマン帝国が残りの1分の鉄道沿線にしがみついてくれれば、敵側の活動はこう着状態におちいり、それでアラブ軍は優勢を保つことができるであろう。」

この時、ロレンスは、ゲリラ戦術が、課題解決の方法論であると見極めました。ロレンスは、このゲリラ戦術を、アラブの反乱という固有事例に即して、課題解決策に適用することを着想したのでした。

そして、ロレンスは、アカバ攻略を次の目標に定めました。

(3)ロレンスによる真の課題設定

ロレンスの考えたアカバ攻略の軍事的意義は、主に次の3つでした。

  • アカバ攻略後は、鉄道の大半部分が、アラブ軍による側面攻撃の脅威にさらされる。
  • アカバは地理的に、エジプトの英軍との情報連携を緊密にできる。
  • アカバは、英軍から食糧や武器などの軍事物資の供給を受けるのに有利な立地である。

そして、ロレンスは、次のように述べています。

パレスティナおよびシリアの征服に連合軍の右翼として行動することを、またアラビア語を話す人たちの希望すなわち自由な砂漠と自己の政府を確保することを願った。私の見解では、この反乱が主要な対トルコ戦に参加できないとあれば失敗であると告白せざるを得まいし、その付属のだしものの地位を脱し得まい。私はそもそもの最初の会見からフェイサルに、自由なるものは与えられるべきものではなく取るべきものである次第を説いてきている。」(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.82)

ロレンスが秘めていたアカバ攻略の政治的意義が明らかです。アラブ軍を連合国軍(英軍)の右翼として動員し、単なる反乱軍の地位を、連合国軍の一翼に格上げすることです。そのことが、アラブ民族が、自ら独立の自由を獲得する上で必要であると述べています。

ポエタは考えます。ロレンスが示した政治的意図は、先ほど、病臥の最中に思い巡らしたゲリラ戦術を用いる方法論を考えた思考ロジックの次元をはるかに越えています。ゲリラ戦術は、アラブの反乱支援という個別の課題を解決するための方法論にすぎません。

ロレンスは、ここで考えを翻しています。たとえ、いくら、アラビア半島オスマン帝国の輸送手段に脅威を与える散発的ゲリラ戦を展開しても、対オスマン帝国戦争(対トルコ戦)に本格的に貢献したとは言えない。ロレンスが述べた、反乱軍を連合国軍の一翼に格上げする狙いは、戦勝後の国際交渉の場で、アラブ民族が発言力を確保するための布石を打つことにあったのではないか。ロレンスには、自分の課題認識を常にブラッシュアップする思考特性があるようです。

このロレンスの新しい着想は、サイクス・ピコ協定がアラブ民族に課した制約と照らしてみて、おおむね正鵠を射た課題の再設定であったと思います。サイクス・ピコ協定は、フランスに約束した権益まではアラブ民族には与えない内容でしたが、その裏に隠れた究極の根拠としての原理原則は、おそらく、「自分の領地は自分で獲得する」というものでした。ロレンスは、英国からはサイクス・ピコ協定を知らされていなかったとされています。ロレンスの再設定した課題と、秘密協定が依拠したであろう原理原則との釣り合いを、奇妙な符合ととるか、人間存在の原理原則を重んじたロレンスの思想が、時機を得るのに大であったととるかは、見方が別れるところだと思います。

いずれにしろ、ロレンスは、アラブ民族の人心に触れ、死と隣合わせの作戦遂行を共にする中で、独立国家達成というアラブ民族の悲願に対して、真剣な思考を巡らし、真の課題を自分の意思で再設定したことは、確かだろうと思います。

1917年7月6日、ロレンスの率いるアラブ軍は、アカバを陥落させました。

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5 アラビアのロレンスの向き合った困難な現実

(1)秘密協定問題について

1917年3月にロシアで二月革命が起こります。新しい革命政府は、旧政権の公文書を調べ上げ、サイクス・ピコ協定を発見しました。その動きを察知したオスマン帝国は、アラブ軍の動きをけん制するために、この秘密協定の内容を世界に暴露しました。

この秘密協定についての噂が、アカバ攻撃の途上にあったロレンスたちの耳に入りました。ロレンスはアラブ人たちから詰問にあいました。ロレンスは、何とか質問をかわしながら、誓いを立てます。

 

「そこで報復的に私は、アラブ反乱をしてわがエジプト戦に十分奉仕させると同時にまたその目的貫徹の推進力たらしめようと誓い、かくして彼らをただ一途に最後的な勝利に導き、その結果当然列強もアラブ人たちの道義にかなう要求に適切な解決をとらざるを得ないようにしようと誓った。そのためにのみ私は、戦を生きぬいて講和会議室での最後の戦をかちとろうとした-それは身のほどしらずの予定でもあろうが、その充足にはまだ負債がのこされている。しかし欺瞞という事実は、依然として別の問題であった。」(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.85)

 

要するに、ロレンスは、アラブ民族が最終的に勝利すれば問題ないのだ、という言い訳を述べ、心痛を忍ばせています。たとえ勝利しても、欺瞞に満ちた協定を結んだ問題は、信義の問題として残るからです。

しかし、これで、ますます一層、アカバを攻略し、アラブ軍を連合国軍の一翼に格上げして戦果をあげることが、現実的な課題として重くロレンスの肩にのしかかったのでした。

この後、6月4日から同18日まで、ロレンスは一時戦線を離脱しています。この間のことは、ロレンスは『知恵の七柱』ではほとんど述べていません。少しばかり判明している事柄もあるようですが、いろいろと憶測の対象になっているようです。ロレンスは情勢の変化に四苦八苦しながら、微妙な問題を処理しようとしたのではないかと思います。

(2)ロレンスのリアリズム

ロレンスは、鉄道を爆破し急襲する劇的な戦術で有名です。ゲリラ戦術に長けた異色の英国軍人としての印象が色濃いですが、ロレンスは、オスマン帝国の思考特性とアラブ軍の心理的特徴を組み合わせた、絶妙な方法論としてゲリラ戦術を位置付けた点に、際立った思考力が発揮されています。

この発想は、ロレンスが、実際にアラビア半島に身を投じ、アラブ人と直に接し、戦闘に加わる中で、すりこまれていった現実感覚を素地としていることは、ほぼ間違いありません。

ロレンスは、戦場では全てが具体的であると述べています。そして、戦略論、戦術論はあくまで抽象的な理論であり、自分の任務には、あまり役に立たなかったと述べています。ロレンスが直面した問題は全て現実であり、解決策の発想の源は現実そのものでした。

ロレンスは、砂漠という極めて厳しい気象条件で、異邦人とともに戦うという、ほとんど前例のない困難な任務の中で、冷静に現実の底に思考の糸を垂らし、生まれた発想を吸い上げて、死の危険をも伴う実践に活かした稀有なるリアリストであったと言えるでしょう。

ロレンスは、秘密協定の風聞に接した際に、アラブ人に詰問されて立てた誓いの内容を、半ば自嘲的に振り返っています。いくら勝てばよいと言っても、欺瞞の問題は避けられないのだと。しかし、ロレンスが、秘密協定を知らなかったのであれば、欺瞞の問題は、ロレンス一個人にとっては、どうしようもありません。政治家に解決してもらうしか、しようがありません。これについては、チャーチルが戦後に解決したとされています(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.92注書き)。

秘密協定が暴露されたとなれば、ますます、アラブ軍が連合国軍の一翼として対オスマン帝国戦で戦果をあげることが、彼自身にとっての、至当な課題となったのです。結果、ロレンスとアラブ軍は、ダマスカス入城を果たしました。この成果がなければ、戦後処理の運営は出口の見えないものとなっていたでしょう。土壇場の取り組みであったとはいえ、ロレンスの功績は、大なるものがあったと推定できます。ロレンスが賞賛されてしかるべきリアリズムは、アラブ民族にとって絶対に必要であると予想された理想的条件を、見事な既成事実にまで具現化したことです。

 

6 閑話休題と一考察

ここまでの経緯を簡単にまとめると、以下の3点です。

  • 英仏間で結んだ秘密協定であるサイクス・ピコ協定は、イギリスがアラブ民族と結んだフサイン・マクマホン協定に対する背信的内容を秘めていた。
  • ロレンスは、アラブ民族が自らの自由は自ら獲得する原理原則に立脚し行動することに職責をかけ、連合国軍の一翼としてオスマン帝国に対する主要な戦果をあげることを課題に置き直した。
  • 現場にいるロレンスは、英国の国益とアラブ民族の理想との間で板挟みにあったが、自己の真の課題を設定し直したことで、方向性を見出した。

ロレンスの活動内容の調査を始めるにあたって、ポエタはいくつかの論点を設定しました。

1.ロレンスは、アカバを攻略する必要性はあったのか。

2.サイクス・ピコ協定は、なぜ暴露されたのか。

3.秘密協定に対するアラブ民族の反発に、ロレンスはどう対応したのか。

4.ロレンスは、なぜダマスカスまで進軍したのか。

5.ロレンスは、サイクス・ピコ協定を知っていたのか。

6.サイクス・ピコ協定は、なぜ背信的だったのか。

最初に、ポエタは、ロレンスの功績は、アラブの反乱支援という課題の解決策として、ゲリラ戦術を適用した点にある、という筋で書こうと考えていました。

しかし、よく考えると、問題は単純ではない。ゲリラ戦をやっていればよいのなら、ダマスカスにまで進軍する必要性はなかったのではないか。さらに言えば、アカバを占領しなくても、ウェジュフさえ拠点にできれば、十分だったのではないか。そう思いました。

それが、1と4の論点につながりました。

また、ロレンスの軌跡を辿る上では、全体像をおさえなくてはならない。そこで、第一次大戦の経緯を調べていくと、サイクス・ピコ協定は、アラブ民族に対して背信的な協定だったと言われている。しかも秘密協定であり、始末の悪いことに、途中で暴露されてしまっている。このことがロレンスに与えた影響は、大きかったに違いない。この問題意識が2と3の論点となりました。

そして、ロレンスはアラブ軍の事実上の参謀機能を果たしており、フェイサルの側近でした。そういう立場の連絡将校が、サイクス・ピコ協定を知らなかったといわれても、にわかには信じがたいものがありました。これが、論点の5につながりました。

また、サイクス・ピコ協定は、一般常識として、英国の二枚舌外交の典型のように言われているが、条文内容を事実として確認しなければならない。これが6の論点です。

これらの論点に答えを出すために、調査した結果を整理して、ポエタの考察をここまで述べてきました。次に、6つの論点に対する答えを改めて整理し、考察を補足します。

 

7 アラビアのロレンスに関する6つの論点の考察

(1)ロレンスには、アカバを攻略する必要性はあったのか

アカバ攻略の軍事的意義は、主に3つでした。

  • アカバ攻略後は、鉄道の大半部分が、アラブ軍による側面攻撃の脅威にさらされる。
  • アカバは地理的に、エジプトの英軍との情報連携を緊密にできる。
  • アカバは、英軍から食糧や武器などの軍事物資の供給を受けるのに有利な立地である。

これは『知恵の七柱』48章(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.81-82)で、ロレンス自ら述べています。

ロレンスが指導原則としたゲリラ戦術にとって重要な点は、1つ目です。アカバ攻略の必要性は確かにある。しかし、ポエタが疑っている理由は、ロレンスが、もう一つの政治的意義をくっつけている点です。

パレスティナおよびシリアの征服に連合軍の右翼として行動することを、またアラビア語を話す人たちの希望すなわち自由な砂漠と自己の政府を確保することを願った。私の見解では、この反乱が主要な対トルコ戦に参加できないとあれば失敗であると告白せざるを得まいし、その付属のだしものの地位を脱し得まい。」(T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.82)

このように、ロレンスは、『知恵の七柱』で、最初に軍事的意義を述べ、続けて政治的意義をつけ加えています。その次に、アラブ人の間でサイクス・ピコ協定の噂が広がった事実を述べています。

『知恵の七柱』は基本的に時間的順序に沿って書かれています。だとすると、ロレンスはサイクス・ピコ協定の噂が流れる前に、アカバ攻略の政治的意義を認識していたことになります。

アカバ攻略にこめられた政治的意義は、サイクス・ピコ協定によってフサイン・マクマホン協定に加えられたアラブ国家への制限を、最大限取り除く狙いを秘めていました。

ロレンスは、サイクス・ピコ協定フサイン・マクマホン協定も知らなかったとされています。しかし、知らないわりには、ロレンスが着想したアカバ攻略の政治的意義は、アラブ軍が秘密協定の制約を最大限乗り越える上で、あまりにも的確です。

ポエタは考えます。ロレンスのアカバ攻略の主目的は、政治的意義にこそあったのではないか。軍事的意義は、ゲリラ戦術を展開する上での有利性を増やすだけの副次的意義であったのではないか。

しかし、アラブ軍は、しばしば物資欠乏の状態にあり、エジプトの英国軍と連絡をとって、物的支援を受ける必要はありました。アカバをとれば、鉄路に対する奇襲攻撃がやりやすくなるのも確かです。ですから、アカバ攻略が軍事的に不要だったわけではない。

ですから、論点に対する答えは、イエスアカバ攻略は必要でした。

ただ、ポエタは、アカバ攻略の主目的が軍事的意義と政治的意義のどちらにあったのか、引き続き問いをもちました。

(2)サイクス・ピコ協定は、なぜ暴露されたのか。

サイクス・ピコ協定は、戦争中にロシアによって暴露されました。秘密協定ですから、それは英仏両国にとって一大事です。それに、アラビア半島の現場でアラブ人と共同戦線を張っているロレンスにとっても、死活的な問題だったはずです。

ですので、ポエタは、なぜ、このタイミングでロシアが暴露したのかに注目しました。理由は、ロシア革命でした。新しく成立した革命政府が、旧政権の加担した悪事を暴くという名目で、旧政権の知りえた情報を暴露したのでした。この動きにオスマン帝国がのっかって、アラブ軍を牽制する情報を流したわけです。

ただ、秘密協定の噂が、ロレンスにとって、不利なだけだったのでしょうか。確かに、アラブ人にとって、自分たちが国家樹立を目指す地域について、英仏がこっそり権益の画定を議論していたのは、信頼を裏切られる行為でした。怒りたくもなるでしょう。しかし、ロレンスにとっては、アラブ軍が自ら自分たちの未来の領土を獲得し、英仏に対する交渉力を身につけることに全力傾注すべきだ、という前向きな発想が、真剣味を帯びる契機になったのではないか。

そう考えてみると、歴史は誰に味方するのか、よくわかりません。

(3)秘密協定に対するアラブ民族の反発に、ロレンスはどう対応したのか。

ロレンスは、アラブ人に詰め寄られて、色々言い訳を並べたそうです。矛盾する協定があった場合は、日付の新しい方が有効だ、とか。半分思いつきみたいなことを言っていたようです。当時、フサイン・マクマホン協定サイクス・ピコ協定の両方の日付まで知れ渡っていたかは不明です。いずれにしろ、ロレンスは、いろいろ言って、信用をつなぎとめようとしたみたいです。

そして、あろうことか、アカバ攻略の政治的意義が、いよいよ増してくる、という論理的構造が出来上がるわけです。ロレンスの着想した政治的意義は、正鵠を射ていたわけです。それを不幸中の幸いというべきか、慧眼というべきか、正直言ってポエタは、迷いました。

(4)ロレンスは、なぜダマスカスまで進軍したのか。

最初は、アラブ軍は、アラビア半島内で、オスマン帝国軍に押され気味でした。アラブ軍が、ダマスカスまで進軍したのは、快挙といっていいでしょう。そんな壮挙をいつから企てたのか、興味が沸きました。

実は、調べきれていません。ただ、結果から明らかなのは、アラブ軍はダマスカスに入城することで、フランス権益のA帯まで入り込んだことです。これは、フランスにとっては簡単には看過しがたい事態でしょう。しかし、アラブ軍にとっては、フランスに対して、ダマスカスを奪った既成事実をもって、有力な交渉材料を手に入れたことになります。ダマスカスへの進軍は、フランスに対する最大限の交渉力を得るために、政治的意義が大きかったのだと思います。

(5)ロレンスは、サイクス・ピコ協定を知っていたのか。

これは、極めて重要な論点です。知らなかったのなら、ロレンスは異常な慧眼の持ち主だったことになります。なぜなら、秘密協定を知らずに、アラブ軍にとって有利になる情勢を見極め、自ら領土を獲得する壮挙を実現させたことになります。知っていたら、どうでしょうか。

実は、ロレンスがアカバ攻略を企画した段階で、多くのアラブ人は、前向きではありませんでした。なので、ロレンスのアカバ攻略には、実にわずかな手勢しか従いませんでした。つまり、アラブ軍全体の雰囲気としては、ダマスカスどころか、アカバまで攻め入るという気は、途中までは、あんまりなかったようです。

ですから、ロレンスはアラブ人の意識に火をつける手段を探し求めていたと思われます。ロレンスが、秘密協定を知っていたとしたら、アラブ軍のアカバ攻略に対する消極性に、やるかたない思いを抱いていたでしょう。秘密協定の存在を言いたくてしようがなかったのではないか。

そこへ、秘密協定の噂の広がりが、時あたかもアカバ攻略の途上に起きるわけです。なんとも言えない展開でした。この秘密協定の噂は、必ずしもロレンスにとって、痛恨事ではなかったのではないか。ポエタには、そう思えてならない。実は噂の発信源は、ロシアの情報を入手したオスマン帝国ではなく、ロレンスではないか、と推定するのは、さすがに勘ぐりすぎでしょうか。サイクス・ピコ協定には、なぜかロシアが関わっていて、ロシア側の動きで情報が漏れたことになっているから不思議です。

ポエタは、ロレンスが秘密協定を知っていたのか、知らなかったのか、この問題には、結論は出していません。どちらであったにせよ、ロレンスは、興味深い人物であったことは、うかがい知れます。

(6)サイクス・ピコ協定は、なぜ背信的だったのか。

前回の記事に、フサイン・マクマホン協定サイクス・ピコ協定の趣旨文を載せています。これが、二枚舌外交の代表例として名高いわけですが、どういう点が背信的なのでしょうか。

英国は、フサインに、アラブ人の独立を承認した上で、フランスの権益を害さない限り、という条件をつけていました。しかし、裏でフランスと両国の権益の分配を決めていた。それをフサインに伝えなかったのは、信義則に反する。そういう理屈で背信的でした。

ところがこう考えるとどうでしょうか。「確かに協定を秘密にしていたのは、信義則に反するでしょう。しかし、英国は、フサインとの協定で、フランス次第だという条件を明示はしています。親切ではなかったが、嘘はついていないのではないか。」そういう疑問が頭をよぎるかもしれません。

しかし、フサインは、フランス次第だという条項は当然知っていたでしょうから、その後も、フランスとの交渉はどうなっているか、イギリスには尋ねていたでしょう。それで、イギリスが、のらくら言ってごまかしていたら、やはり問題ではないか。おそらく、そういう所に、アラブ側の不信があったのだろうと推測します。

実際に、サイクス・ピコ協定の噂が広がった際には、英仏両国の担当官がフサインの所へ行って、お茶を濁すことを言ったようです。

だいぶ後のことになりますが、イギリスは、とってつけたように、アラブ側に対して約束をします。

「戦争中アラブ人の武力によって解放された地域は、すべて完全な独立国として」彼等に与えることを約している(中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.129-130)。

これは、1918年6月11日に、カイロのアラブ七人委員会という所に対し、イギリスが与えることになる保証でした。この日付は、アラブ軍のダマスカス入城(1918年10月1日)より前です。

この保証は、ロレンスのにらんだであろう原則論である「自分の領土は自分で勝ち取る」を裏書きするものです。英国は、この保証で、秘密協定の背信問題を、とりあえず回避できると踏んだ可能性があります。ロレンスは、フェイサルに、最初の会見の時から、その原則論を強調していました。自由は与えられるのではなく、自分で取るべきもの、という原則論です。少なくともフェイサルは、当初からこの原則論を知っていたわけですから、これとの整合性はとれるわけです。

ただし、イギリスは、アラブ軍が、青色帯には攻め込まないという見込みがなくては、この保証はできません。フェイサルの信用を得ていたロレンスが一枚かまなければ、イギリスは、こんな保証はできなかったでしょう。

アカバ陥落は、1917年7月6日ですから、ロレンスが、英国政府と示し合せる時間的猶予はあったと思われます。秘密協定の噂が広がった直後、1917年6月4日から18日まで、ロレンスの動静が不明瞭な理由は、大いに注目すべき点です。詳細は不明ですが、どうも、この辺にも、ロレンスが単なるゲリラ戦参謀ではなかったという側面が、うっすらと浮かび上がってきます。考えてみれば、ロレンスの肩書きは、フェイサル付政治顧問兼軍連絡将校です。ロレンスは、フェイサルに、政治問題に関して意見し、英国軍とは情報連絡できたわけですね。

 

<論点のまとめ>

6つの論点に関する、現時点の答えです。

(1)ロレンスは、アカバを攻略する必要性はあったのか。

   必要性はあった。主目的は不明。

(2)サイクス・ピコ協定は、なぜ暴露されたのか。

   ロシア革命後の革命政府が発見し、オスマン帝国が情報を流したから

(3)秘密協定に対するアラブ民族の反発に、ロレンスはどう対応したのか。

   とりあえずいろいろ言って、やり過ごした

(4)ロレンスは、なぜダマスカスまで進軍したのか。

   企図は不明。結果から言えば、アラブ側の権益の上限に達するからではないか。

(5)ロレンスは、サイクス・ピコ協定を知っていたのか。

   どちらとも言えない。

(6)サイクス・ピコ協定は、なぜ背信的だったのか。

   アラブ側に重要情報を秘匿した英国の対応があったため。

煮え切れない結論だと、お思いでしょう。確かにそれは認めます。ロレンスは、手がかりを残してくれなかった。「ロレンスによる策謀説」を証明する証拠も、反証するための証拠すらも。

 

<余談>

余談を述べます。あくまで全部、推定ですが。

私は、ロレンスはサイクス・ピコ協定を知っていたと思っています。しかも、アラビア入りした当初から知っていたと思います。なぜなら、ロレンスは任務を引き受ける上で、当然のこととして、戦略目標を確かめたであろうからです。

そして、ロレンスが確かめた相手が、まともな高官であれば、その場合、サイクス・ピコ協定の趣旨に触れないわけにはいかない。実は、ロレンスは、この任務に就いてアラビア訪問をする前に、陸軍情報部を出て、外務省アラビア局に転属しています。おそらく、サイクス・ピコ協定の責任当局は、これがはっきりしないのですが、おそらくイギリス外務省だったでしょう。少なくとも、フサイン・マクマホン協定の責任当局はイギリス外務省です。今度、ロレンスに会ったらきいてみたいです。「君、外務省所属だったら、あの協定のこと、知ってたんじゃないの?」

正直に言って、ロレンスは、軍人なのか外務省職員なのか、よくわかりません。肩書きは、フェイサル付政治顧問兼軍連絡将校ですが、本当によくわからないのです。外務省の肩書きだったら、フサインに目をつけられたでしょうね。

ロレンスが、最初に反乱の指導者としてふさわしい人物を探したのも、サイクス・ピコ協定の本当の意味を託すべき人物を見出したかったからだと思います。もっと的確に言うと、ロレンスは、「預言者」の資格のある人物こそ、英国が支援すべき対象であると考えていたのだと思います。「自ら勝ち取った領土を自国の領土にする」という方針を徹底し、部下の苦労には、その通りの結果で報いる人物。つまり権威ある言葉を生み出す「預言者」です。そしてロレンスが預言者としての資質を見込んだのが、フェイサルだったのではないでしょうか。人物の資質を見定め、こみいった話を持ちかけること自体が、相当なリスクだったに違いありません。それをロレンスがやったとしたら、相当な人間洞察力とコミュニケーション能力の持ち主です。

つまり、ロレンスは、最初から、戦後処理を見据えた地ならしに取り組んでいたと思います。フェイサルに決め込んでからイギリス側に戻って報告し、イギリスとして支援すると決まった後に、ロレンスは改めて、イギリスから、アラブの反乱の支援任務を命じられました。実は、ロレンスは、それを断ったと述べています。しかし、最後は命令に従いました。というのも、このような微妙な問題を抱えた船出は、その地ならしをした人間にしか、舵はとれないからだと思います。おそらく、ロレンスは、フェイサルとの最初の会見で、イギリスとして貴重というべき信頼関係を結んだのだと思います。

しかし、フェイサルの率いたアラブ人たちは、そのことは知らない。いろんな部族の集まりですから、そこまで詳しくは情報を共有できない。ロレンスは、上層部とだけ結んだ上で、支援任務に就いたのでしょう。

そして、アカバ攻略直前に、アラブ人の間に、サイクス・ピコ協定の噂を流したのも、ロレンスだと思います。これは、ロレンスが、この段階で、アラブ人全体のダマスカスを目指す気運づくりを図ったのだと思います。これは身に危険が及びかねないことであり、ロレンスにとって非常にリスキーです。フランスも怒ります。イギリスが事前に聞いていたかはわかりません。ですから、そんなことはするはずがない、という人は多いかもしれません。ですが、私は、タイミングがあまりに絶妙だったと思います。ロレンスの本願にとっては、天佑ともいうべきタイミングに出た噂話です。決して皮肉ではありません。

ロレンスの本願とは何だったか。それは、単にアラブ民族を利用してイギリスの国益を優先するとか、あるいは逆にアラブの悲願に感情的に肩入れするとか、そういうことではない。もし、アラブ軍が、アラビア半島で、ヒジャーズ鉄道の爆破だけやって、ダマスカスにもアカバにも攻め込まずに、戦争が終結したら、どうなるか。英仏は、青色帯、A帯、赤色帯、B帯は、全部自分たちのものにして、アラブ民族をアラビア半島に押し込んだでしょう。おそらく、それではアラブ民族は納得しない。もっと北の領域も望んだのだ、自分たちも戦ったのだ、そう主張して、悲願成就のため反乱を起こしたかもしれない。これでは、中東が治まらないのです。誰も統治責任を果たせないでしょう。

だから、ロレンスは、アラブ民族がオスマン帝国に対して反旗をひるがえすことを、イギリスが政治的に利用し、これを軍事的に支援する以上、アラブ軍が目一杯、できればA帯まで攻め込むよう、導かねばならない。それが達成されれば、戦後交渉において、アラブ民族が、英仏に、相応の国土を認めさせるための既成事実が整う。これが、ロレンスの本願だったのだと、そう私は考えています。

推定に推定を重ねます。ロレンスは『知恵の七柱』で、背信的な秘密協定に関して、自責の念にかられています。しかし、秘密協定を、ロレンスが知らなかったのなら、ロレンス一個人が気に病むことではない。目の前のアラブ人に対して申し訳ない、と思う気持ちはよくわかります。しかし、ロレンスが贖罪の気持ちだけで任務にあたったとは私には思えない。でなければ、これほど過酷な任務を長期にわたって完遂できるでしょうか。ロレンスは秘密協定を知っていたと思います。

なおかつ、ロレンスが真に戦った相手は、オスマン帝国ではない。では、ロレンスが本当に挑んだのは、秘密協定を結んだ英仏交渉官か。それはわかりません。正直に言って、交渉過程は、そこまで調べていません。ただ、私は歴史の胎動に浮かんでは消えそうな一人の男が、最初から最後まで、意を決して戦い抜いた事実に、身の震える思いがします。歴史と戦った。この言葉がただのお世辞とは思いません。

ロレンスは、手元に本当の大義名分を握っていた。上層部とも握っていた。後は戦争に勝つのみである。それ以外の選択肢はなかった。私はロレンスの身命を賭したリアリズムに言葉もありません。以上です。

 

8 ダマスカス入城後のロレンスの政治目的

アカバ攻略後、アラブ軍はダマスカスを目指します。アラブ軍は、エジプト方面からシリアに向けてパレスチナを進軍する、英国軍の右翼を担います。アラブ軍は、事実上、連合国軍(英国側)に属する軍隊として動きます。

ただ、この時点でアラブ軍は、国家としての独立は果たしていません。ですので、正式な国家の軍隊ではありません。この点、国家としての資格を得ることがアラブ軍の軍事行動の目的ですが、軍事行動の根拠となる国家主権はないわけです。これがアラブ軍の根本的な矛盾です。ロレンスは、この矛盾を解決するために、アラブ軍が自国の領土を自ら制圧する軍事的な課題に傾注しました。

アカバ攻略後のアラブ軍は、英国のアレンビー将軍の指揮下に入ります。ロレンスは、その著書『知恵の七柱』で、逐一命令に服従して行動すればよい兵士的な身分の方が、よほど気楽だ、と心根をこぼしたことがあります。『知恵の七柱』の続きを読むと、アレンビーの指揮下に入ることで、ロレンスの心理的な重圧が和らいだ印象を受けます。

アラブ軍は、英軍から兵器や物資の支援を受けました。空軍の支援も受けました。それまでロレンスは、ずっとラクダに乗って砂漠を移動していましたが、長期間の移動は、足腰にすり傷ができて、苦痛をもよおします。英軍との合流後は、ロールスロイス車に乗って移動することが増え、肉体的負担は減ったと思われます。

アラブの反乱の後期では、ロレンスの軍事的活躍は絶頂期を過ぎ、英国軍人(?)として組織的に行動する、一種の安定期に入ります。『知恵の七柱』を読んでいると、あまり劇的という活躍もなく、ダマスカス入城に至った感がします。苦労はしてますけどね。

では、ダマスカス入城で、ロレンスの課題は達成されたのか? クライマックスは、戦争終結後に控えていました。先ほど言った、アラブ軍が抱えていた根本的な矛盾は、軍事的な課題だけではなく、政治的課題にも置き換える必要があります。なぜでしょうか?

軍事的な課題は、アラブ軍が自ら領土を制圧することでした。それはアラブの独立国家建設のための必須の条件です。しかし、アラブ独立のためには、それだけでは不足です。目的を果たすためには、実際に、連合国に対してアラブの国家独立を承認させる政治交渉が必要です。

ロレンスの真の目的意識は中東の平和です。今回の記事では、単なる軍事戦術家の枠にとどまらない、ロレンスの政治活動を追いたいと思います。その結果は、ロレンスの大きな挫折でした。

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9 パリ講和会議におけるロレンスの活動

(1)ロレンスのダマスカス退去

1917年10月、ロレンスとアラブ軍は、市民の歓喜とともにダマスカスに迎えられました。ダマスカスの解放によって、オスマン帝国の敗北は決定的となります。ロレンスは、オスマン帝国によって破壊されたインフラや治安、衛生状態の回復に務めます。市政を回復するために、旧政府の職員を引き続き登用するという英断が行われます。

フェイサルは、アラブ人に交戦国としての資格を認める英国からの公電を受け取りました。これを見届けたロレンスは、アレンビーにアラビアからの退去を願い出ました。自分がいない方が新法の実施は容易になる、という理由です。退去を認められたロレンスがダマスカスを去ったのは、入城のわずか3日後です。

随分とあっさりとした引き際です。『知恵の七柱』の記述は、ロレンスのダマスカス退去で幕を閉じます。しかし、ロレンスは単なるゲリラ戦参謀ではありません。これが全ての終わりではありませんでした。

ダマスカス入城でロレンスの支援した軍事行動はいったん終了しました。しかし、アラブ軍の根本的矛盾はまだ解決していません。連合国陣営によるアラブ独立国家の領土確定に関する承認こそが、まさに次なる課題として浮上したわけです。ロレンスはパリ講和会議で暗躍します。

(2)イギリスが出した協定・宣言の数々

ロレンスは、講和会議の前提となる、アラブ軍の軍事的実績を生み出すのに功績がありました。しかし、それで「めでたしめでたし」と言って腰を落ち着かせないわけです。

ポエタは考えます。ロレンスが、あっさりとダマスカスを退去したのは、見事な引き際です。その身の処し方は、気分の問題ではなく、合理的な判断だと思います。

ロレンスは、軍事的課題を既に達成したから、この地域にいる必要がなかったのだと思います。これまで、ロレンスが砂漠地帯の活動にどっぷりつかった狙いは、戦後交渉を見据えた既成事実の形成に他なりません。ロレンスが真の課題を射抜く視線は、すでに国際政治の交渉のテーブルに移っていました。ダマスカスに居続けても、次なる課題に取り組むことにはならない。

戦後交渉を行う上での前提条件は、各国・各軍の戦果です。それといわくつきの諸協定・宣言です。それ以外に、各人の間で陰に陽に張り巡らされた、個人的な約束事だったでしょう。

当時の英国が結んだ協定類は次の4つでした。

   英国はアラブ民族に対し、戦後のアラブ国家設立承認を約束した。

   英仏露でフサイン・マクマホン協定の範囲を秘密裏に制限した。

  • アラブ7人委員会への保証(=C)

   英国はアラブ民族が軍事的に制圧した地域を独立国として承認すると保証した。

   英国は、パレスチナユダヤ人が民族的郷土を設立することに賛成した。

A文書とB文書がバッティングする問題は、既に論じました。A文書とB文書との間の整合問題は、Cの原則を樹立すれば、アラブ軍の進軍がA帯を北限とすることで、とりあえず何とかなりそうです。A帯であれば、かろうじてアラブ国家の建設は認められる余地があったからです(実際はフランスのダマスカス進駐で、かなりもめますが)。いずれにしろ、A文書、B文書、そしてCがからみつく問題の解決を進めるための事実関係は揃っていたと思います。ロレンスが作り上げた軍事上の既成事実とフェイサルに念押しした「自由の原則(自由は自分で取る)」が、解決の土台であったと思います。

そこに水をさす宣言なのが、D文書です。これがなぜ問題か。

D文書はユダヤ民族の権益を認めていますが、ユダヤ民族自身が軍隊を組成してパレスチナに自ら攻めよせたわけではありません。エジプトから進軍した英国軍がパレスチナのガザ、エルサレム、イェリコという地域を解放していったのです。「なぜユダヤ人はパレスチナ地方に自分たちの権益を確保する大義名分があるのか」と、アラブ民族がつっこみを入れようと思えば、入れられたかもしれない。ここに難しい問題が生じるわけです。

ですが、結論を先に言うと、D文書と原理原則との間の不整合問題は、最終的には、ロレンスの「自由の原則」論を犠牲にする形で解決されました。そのことを見ていきましょう。

(3)パリ講和会議とその後

戦後交渉の舞台は、パリ講和会議です。パリ講和会議は、米国のウィルソン、英国のロイド・ジョージ、仏国のクレマンソーの三巨頭が主導しました。ロレンスは、会議期間中、三巨頭の私室に頻繁に出入りし、接触をもっていたと言われています。

ロレンスはダマスカスを首都とするシリアを、フェイサルの統治に帰することを意図していたようです。これがシリア地域を支配下に置こうとするフランスの意図と衝突しました。

パリ講和会議はもめにもめます。結果は会議後にもちこされます。次のような案に落ち着いたようです。

この結果、アラブ軍は、ダマスカス、アレッポ等の4都市を保有するだけになりました。フランスとしては、英国がメソポタミアを得るなら、シリアを確保したい。そういう綱引きであったようです。ロレンスの構想は実現しませんでした。

そして、アラブ民族はこの結果に不満を覚え、抗議の声をあげます。ダマスカスに会議を招集し、フェイサルはシリア王、アブドゥッラーをイラク王であると宣言しました。英仏は、あわてて一定の譲歩をしましたが、イラク全土で反乱が起こりました。

そして仏国は、過激派の鎮圧を名目に、ダマスカスを占領しました。

ロレンスは、新聞紙上で、この中東問題について意見し、解決策を提言しました。その成果かどうかはわかりませんが、英国は、国内の世論におされて、次善の策を練りました。英国はチャーチルを植民省のトップに据えて事態の打開を図ります。ロレンスはチャーチルの政治顧問に起用されました。そして、1921年のカイロ会議で、英国は、フェイサルをイラク王とし、アブドゥッラーをトランスヨルダン王としました。一方、老王のフサインは、結果的には、ヒジャーズを治めることになりました。

 

10 考察

(1)ロレンスのアラブ国家の構想は何が問題か

パリ講和会議では、ロレンスは英国外務省から東方問題顧問として正式に交渉全権の一員に任命されました。それに先立って、英国政府の東方問題委員会は、ロレンスを招き意見を質しました。そこでロレンスは、あろうことか、自由の原則と微妙に矛盾しかねない提言を行っています。

それは、フサインの子息三兄弟をあげ、シリアはフェイサル、上メソポタミアはザイド、下メソポタミアはアブドゥッラを王とするアラブ国家の構想です。

ポエタは考えます。一見すると、アラブ民族の主張が通るし、「自由の原則」も尊重しているから、よいように思えます。しかし、これが微妙によくない。

フェイサルが、シリア王となるのは、自ら勝ち取った領土ですから、この戦争の底流に流れていた「自由の原則」を実現する上で、至当な内容です。しかし上下メソポタミアは、アラブ軍が進軍して制圧したわけではありません。

サイクス・ピコ協定では、メソポタミアの主要な地域は、英国の支配領域として認められていました。だったら、英国が認めるだけだから、それでよいではないか。そう思う理由はわかります。しかし、アラブ軍が自ら勝ち取っていない地域を領土として認めることは、「自由の原則」に対する例外を設けたとも解釈できる微妙な措置です。

ポエタは考えます。ロレンスが活動の底流に据えた「自由の原則」は、理想性において際立っています。ロレンスは単なる安物の理想論として原則論を唱えたわけではないでしょう。しかし、この種の原則論は、「自由」という西洋人にとって思い入れたっぷりの概念で出来上がっているために、金科玉条としての印象は色濃かったと思います。

この理想の極みとしての「自由の原則」に、あえて例外を設けることには、何らかの相当な根拠がなければならないわけです。なぜメソポタミアまでをアラブの領土に認めるのか、という根拠です。

しかも、英国は「自由の原則」をCの保証として、言葉を変えて明示しているわけですが、これがD文書と矛盾しかねません。D文書では、英国が、ユダヤ民族によるパレスチナ地域での郷土建設に賛意を示したわけですが、ユダヤ民族はこの戦争で、パレスチナを自ら戦って占拠したわけではありません。そのユダヤ民族に郷土建設を認めることは、「自由の原則」の破綻を意味します。

つまり、英国(あるいはロレンス)の「自由の原則」論は、それを批判的に検証してみると、色々とアラがあったわけです。ロレンスのアラブ国家の構想も、そういう批判的な分脈で検証してみると、「自由の原則」の実践が不徹底なのではないか、という疑いを持たれかねないわけです。これが、ポエタの考える、ロレンスのアラブ国家構想の問題点です。

英仏両政府が、ロレンスのアラブ国家構想に沿った共同声明を発すると、英仏内部から反対の声が上がりました。パリ講和会議は、始まる前から混沌としていました。ロレンス自身は、「こんどは負け戦であることを覚悟していた」(中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.164)と述べたと言われています。

(2)D文書と「自由の原則」論との間の不整合問題

このように、英国は、パリ講和会議の開始において、すでに論理的なジレンマを抱えていたと思われます。「自由の原則」論の論理性を徹底すると、D文書を破棄しなければならない。一方、D文書を尊重すると、「自由の原則」を根拠としたフェイサルのシリア王国建設が危うくなる。

その後の交渉も含めた結果としては、フェイサルのシリア王国建設は実現しませんでした。英国は、カイロ会議で状況の打開を試み、ようやくのところ、フェイサルをイラク王とし、アブドゥッラーをトランスヨルダン王としました。これは植民相のチャーチルの成果であり、ロレンスは政治顧問として動いたようです。

ですが、結果から推定すると、英国は「自由の原則」の徹底を諦めることで、D文書の趣旨を尊重しながら、最大限アラブとの約束を果たそうとする、政治的妥協に動いたように思われます。

こうして見ていくと、ダマスカス入城後の、国家独立と領土の配置は、諸協定・宣言をベースに、妥協に妥協を重ねた結果におさまったと言えるでしょう。

それで、ロレンスの掲げた普遍的な「自由の原則」は、台無しになったわけです。その遠因は、ロレンス自身が「自由の原則」を必ずしも徹底しない提案をした点にあると思います。

ただ、英国が最初から、アラブによるシリアの領有は認めて、メソポタミアのアラブ領有の方は認めなかったとしたら、どうでしょうか。王座を期待したアブドゥッラー達は怒ったかもしれない。ロレンスが水面下でアラブ側と、どのような事前交渉をしていたかによって、アラブ側の反応は異なっていたと思います。残念なことに、そこまで十分調べきれていません。

(3)アラブ民族の国家独立の悲願達成

カイロ会議における打開策を経て、イラク、トランスヨルダン、そして結果的にヒジャーズ、この圏域において、アラブ人の独立国家は誕生しました。しかし、これは暴動や進駐が起きた結果実現した姿であり、不規則な経過を辿った結末でした。

その後1936年には、イラクで軍事クーデターが起こります。イラクではイギリスにかわって軍部の影響力が増します。

ヒジャーズ王国は、1924年に起きたイブン=サウードによる攻撃で倒されます。

つまり独立したアラブ国家は、政変によって主人公を入れ替えながら、存続の道を歩んだわけです。主人公は交代しながらも、アラブ民族独立の約束は果たされた、と言うべきでしょうか。

(4)ロレンスが取り組んだ課題の達成評価

ロレンスが取り組んだ課題と、結果を整理します。

<課題と達成状況>

  • 課題①:アラブ民族の反乱支援(軍事面)

   オスマン帝国に打撃を与え、敗北に追い込む結果を得て、狙いは達成された。

  • 課題②:アラブ民族の独立国家の建設支援(政治面)

   結果的にアラブ民族の独立国家誕生は成し遂げられた。

ロレンスの課題を並べてみると、二つとも達成されたことになります。しかし、ロレンスのその後の人生には、ある種の虚無感が伴います。意気揚々とした心境ではなかったようです。

パリ講和会議を経た後、主張が通らなかったアラブ民族はイラクで反乱を起こしています。フランスは、ダマスカスに進駐しました。つまり戦後も混乱は長引き、中東に、真の平和がすぐに訪れたわけではない。ロレンスが、アラブ国家建設を課題として取り組んだのも、英国が現実の平和を実現する統治責任を果たすことが狙いだったと思います。その真の狙いにおいて、ロレンスの本願が達成されたわけではないのです。

また、先ほど言ったように、「自由は自分でとる」「自国の領土は自分で勝ち取る」という、ロレンスの活動を根底で支えていた原理原則は、戦後の混乱と政治交渉において、無力を呈しました。

ロレンスは、単なる理想家ではありません。先々を見通した、リアリズムを実践しようとした人です。ロレンスにとって、「自由の原則」は、政治の理想、つまり平和を実現するための、合理的な手段だったでしょう。その原則が骨抜きになったことについて、ロレンスは大きな挫折感を感じたのではないでしょうか。

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11 最後に

(1)「自由の原則」の不徹底

メソポタミアもアラブ国家に含めて考えるロレンスの構想は、「自由の原則」の論理的意味においては、不徹底でした。しかし、本来それはイギリスの裁量の範囲で、追加的にアラブに領土を認めただけだから、他国からとやかく批判される筋合いはなかったはずです。ほんとうに自由の原則論は、そこまで不当なものなのでしょうか?

そうは言っても、「じゃあD文書(バルフォア宣言)はどうなんだ?」と突っ込まれたら、やはりD文書の内容が自由の原則とは整合していないので、どのみち自由の原則論を維持するのは難しい。英国の裁量をどうこう言う以前の、原則論そのものの破綻が浮き彫りになるわけです。

ロレンスが、最初から負ける見通しをもっていた理由もわかる気がします。おそらく、アラブ勢力によるメソポタミアの領有を最初から引っ込めていたら、アラブ側が納得しないのが、ロレンスにはわかっていたのではないか、と思います。だから、ロレンスは、アラブ国家構想をダメ元で言ったのではないでしょうか。そして、矛盾に満ちた自由の原則論を引っ込める形で、せめてメソポタミアにアラブ国家が出来上がる道を選んだのでしょう。その結果、英国は、自国の裁量の範囲においては、既成事実に基づき、全ての協定類の中身を守ったことになります。アラブは、シリア内で占拠した地域は失いましたが、フランスが自ら軍事力で制圧した結果なので、英国の政治的裁量ではどうにもなりません。

(2)「政治家」ロレンスのリアリズム

ロレンスは、2つの課題は一応達成しました。しかし、原則論的に狙い定めた目標は達成し得なかった。この結果をどう考えるべきでしょうか。

ロレンスは、趣味でアラブの反乱を支援したわけではありません。あくまで仕事として取り組んだわけです。いくらロレンスでも、職分を越える働きはできなかった。

ロレンスの2つの課題は、どちらも文言上は達成されています。しかし、真の狙いは達成されなかった。その理由は、彼の職分が、基本的にはあくまで将校であり、政治家ではなかったからだと思います。

軍事活動中の主役は軍人です。しかし、戦後交渉における主役は政治家です。戦争の狙いを設定するのは、政治家の役割です。

ロレンスは、原理原則を重視しました。原理原則の筋の通った効力によって、中東の平和を実現することに狙いを置きました。しかし、「自由の原則」は、バルフォア宣言(D文書)と矛盾していたわけです。結果的に、英国が、バルフォア宣言(D文書)を反故にせず、「自由の原則」を引っ込めることになったのは、ロレンスの原則主義の完全な敗北でした。

政治家達にもリアリズムがありました。諸協定・文書という前提条件を踏まえなければならないという政治的現実です。政治家の作り上げた政治的な既成事実に対して、ロレンスの作り上げた軍事的な既成事実が挑んだわけです。この勝負にロレンスは勝てなかった。政治権力の伴わない原則論が敗北したのです。ポエタは、ここにロレンスの政治力の限界を見ないわけにはいきません。

ロレンスの挫折の経験は、私たちに大切なことを教えてくれます。いかに有能なリアリストでも、別の背景を形づくっている現実には負けることがある。原則論は権力を味方にしなければ政治的現実には通用しない。

しかし、ロレンスは、二つの課題は達成しました。将校という職分においては、最大限の成果であったと言えるでしょう。何のための苦役であったか、という煩悶は、多分ロレンス本人しか味合わない苦しみでしょう。歴史は人間の労苦を素通りします。しかし、ロレンスがその後味わい続けた苦悶は、仕事をやり切った者にしか与えられない報償です。ポエタはそう思います。

(3)ロレンスの見た星

ロレンスによれば、バルフォア宣言は、英国がロスチャイルド卿宛に出したとされています(中野好夫アラビアのロレンス岩波新書岩波書店、2013年、P.131)。

先ほど、バルフォア宣言が、ロレンスの奉じたであろう「自由の原則」論とは、微妙に反する内容であり、結果的に「自由の原則」論を一部引っ込めるかっこうで戦後交渉は終わったと述べました。

歴史が過ぎ去った今、ロレンスに対する問いを立てるとしたら、こうなります。「あなたがたが費消した英国の戦費はどこから調達したのですか?」。この問いに対する答えは不明です。

ロレンスが、著した自叙伝『知恵の七柱』の題名は、ユダヤ教聖典である旧約聖書の言葉からとったものだと言われています。晩年、隠棲したロレンスの頭上に輝いた星は、今となっては、ロレンス本人にしか見えません。

 

<主要参考文献>

中野好夫アラビアのロレンス岩波新書岩波書店、2013年

T.E.ロレンス『知恵の七柱1』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1989年

T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年

T.E.ロレンス『知恵の七柱3』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1989年

 

ポエタ

 

<後記>

ダマスカス入城までの軍事的活躍を中心に描いた作品が、映画「アラビアのロレンス」です。

この作品は、ロレンスの人間像と戦術の描写に焦点が当たっています。

雄大な砂漠を舞台に、異邦人のため、全てを賭けて戦う孤独な男の物語です。

政治的挫折に至るロレンスの心情を感じることができます。

雰囲気を理解するのに、映画はてっとり早いですね。

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