課題の教科書

Critical Realism for All Leader

アラビアのロレンスはゲリラ戦以上の課題を深掘りした|アカバ攻略まで

こんにちは。ポエタです。

課題批評の事例編です。

目次です。

1 はじめに

トマス・エドワード・ロレンス(T.E.ロレンス)という人がいました。この人は、英国の将校として、第一次世界大戦当時の英国の敵国であるオスマン帝国に圧力を加える作戦の支援を命じられました。

オスマン帝国は、今のトルコですが、当時はシリアからアラビア半島まで勢力を伸ばしていました。アラビア半島には、アラブ民族がいました。アラブ民族は、アラブ地域におけるアラブ民族による独立国家の設立を目標にかかげ、オスマン帝国に対して反乱を起こしました。

T.E.ロレンスは、イギリスから、アラブの反乱の支援を命じられました。オスマン帝国に側面から打撃を与え、イギリスの戦争を有利に進めるのが狙いでした。T.E.ロレンスは、灼熱の砂漠の広がるアラビア半島に赴きました。そして苦役に等しい任務をやり遂げました。

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かなり昔の映画ですが、『アラビアのロレンス』では、ロレンスの活躍が、一部脚色をまじえて描かれています。

T.E.ロレンスは、人物としての魅力に富んでいました。そのせいか、人物の個性に焦点を当てたり、T.E.ロレンスが遂行した特異な作戦内容に関心が向き、正負の両方の面で理想化されがちです。

しかし、映画では、ロレンスの思考ロジックについては、あまり詳しくは描写されません。

英国の将校として、英国の国益を追求するのは当然でした。しかし、アラブの現場で円滑に活動するには、アラブ人の信頼を得なければなりません。この矛盾はT.E.ロレンスに大きくのしかかったはずです。

T.E.ロレンスは、身の上に迫る矛盾を解決しながら任務を続けるために、明確な思考ロジックを構築しなければならなかったでしょう。

T.E.ロレンスの半身はアラブの砂漠にありました。そして、もう一方の半身は、国際政治の渦中に置かれました。

T.E.ロレンスが活動する上で、始終脳裏を支配していた根本問題は2つあったと思われます。 

  • 英国がアラブ民族との約束と矛盾する秘密協定をフランスと結んだ問題をどう考えるか。
  • 自分が本当に解決すべき課題をどこに見定めるか。 

今回の記事では、2つの根本問題をT.E.ロレンスがどう考えたかについて、見ていきたいと思います。自分の本当の課題を問い続けることは、ビジネスにも必要な思考特性です。ロレンスが、いかにとことん課題を追求する人だったかを語りたいと思います。その中で、ロレンスが、英仏がいつの間にか結んでいた秘密協定に振り回されながらも、決心する姿は、感動的ですらあります。

 

2 T.E.ロレンスの取組みの前提条件

(1)アラブの反乱に至る経緯

T.E.ロレンスが活動した時代は、第一次世界大戦当時です。1914年6月に、オーストリアの皇子が、セルビア人青年に暗殺されました。これを機に、オーストリアセルビアに宣戦布告します。セルビアを支援していたロシアは総動員令を発しました。するとドイツはロシアとフランスに宣戦布告しました。戦争の火の手は一気に広がり、ヨーロッパ中のほとんどの国が、連合国側と同盟国側に分かれて争い始めました。また、戦争は世界各国にも広がり、第一次世界大戦と呼ばれる規模に膨らみました。 

<主な戦争参加国>

  • 連合国

   イギリス、フランス、ロシア、イタリア、ギリシア

  • 同盟国

   ドイツ、オーストリアオスマン帝国

戦争開始当初は、短期で終結すると言われていました。しかし、塹壕戦が始まると戦局は膠着し、長期化します。軍隊同士の決戦によっては戦争は終結せず、国家の国民の総力をあげた戦争となりました。

総力戦となった第一次大戦には、次のような特徴がありました。

  • 敵国の植民地における独立運動を支援
  • 民意(議会)を介さない秘密協定を締結

当事国は、ありとあらゆる手段を講じて戦争を勝利に導こうとしたわけです。

T.E.ロレンスが命じられた、オスマン帝国に対するアラブ民族の反乱の支援は、このような戦争下の要請として課された課題でした。

そして、T.E.ロレンスの課題は、秘密協定という全体的枠組みの中で、大きな矛盾を抱えることになりました。 

(2)イギリスが結んだ諸協定の表裏

ロレンスがアラビア入りするのが、1916年10月です。

その前の1916年春に、フサイン・マクマホン協定が結ばれます。これは、アラブ民族の反乱を主導したフサイン・イブン・アリーと英国のエジプト駐在高等弁務官サー・ヘンリー・マクマホンとの間で交わされた協定です。

交渉中の1915年10月に英国外務省からマクマホンにくだった訓令の趣旨です。

  1. フサインの要求する地域内におけるアラブ人の独立を承認し、支持することを保証する。
  2. 但し、除外例あり
  • 南北にアレッポ、ハマ、ホムズ、ダマスカスをつなぐ線から以西、地中海岸に至るシリア地方は、これは純粋にアラブ人居住地域とはいえないことと、またそこはフランスの勢力圏という二つの理由で除外する。
  • この保証は、イギリスがフランスの権益を害することなしに行動の自由をもっている地域に限られること
  • バズラバグダッド間のメソポタミアにはある程度のイギリス支配権を認めること

*1 

この協定は、曖昧な表現を含み、イギリスとアラブ人との関係をこじらせるリスクをはらんでいました。

というのも、最初の1.は、アラブ民族の利益を明言しています。しかし、2.で除外例が、たくさん羅列してあります。

ポエタの注目点です。この協定の問題点は、イギリスが保証するアラブ民族の権益が、「イギリスがフランスの権益を害することなしに行動の自由をもっている地域に限られる」とされている点です。これだと、協定が定めるアラブ人の権益の範囲は、フランスの意向によって、いかようにも変更があり得るということになります。アラブ民族の権益が、いつどのように確定するのかが、はっきりしないのです。

フサイン側も、この協定の不完全さは認識していたようです。トルコとの戦局が待った無しの状態であり、とりあえず協定締結を急いだかっこうです。

一方で、1916年4月からサイクス・ピコ協定が英仏の間で、秘密交渉入りします。この協定は、1916年5月16日に成立しました。以下が、その内容です。 

  1. 南は今日のレバノンから、ダマスカス、アレッポの線をつなぎ、さらに北してイスケンデロン湾を囲む地中海沿いの海岸地帯と、奥はティグリス河上流一帯から遠くアルメニアに接するあたりまでを含む地域、これを青色に塗って「青色帯」と称し、フランス統治下に置く。
  2. バクダッドの北からペルシャ湾に至るティグリス、ユーフラテス流域、これは「赤色帯」としてイギリス統治に予定された。
  3. 次にアラビア半島部に「A帯」「B帯」を設定して、ここにはアラブ人の独立国家を許すにしても、A帯はフランス勢力下に、B帯はイギリス勢力下に、それぞれ置くことを決定した。(A帯:アレッポガリラヤ海をつなぐ線を底辺とし、モズルの東、ペルシャ国境を頂点とする、だいたい横に倒れた三角形の地域/B帯:西はガリラヤ海、死海、ガザ、アカバをつなぎ、東は上記赤色帯に接する北部アラビアの大部分を包含する地域)
  4. ところがその後、英仏側はこれをロシアにも示して、その分前として青色帯の北につらなり、黒海岸のトレビゾンドからグルジアアルメニアに接する一帯を与えると約した。
  5. 青色帯のアレキサンドレッタ港(現在のイスケンデロン)は自由港とする。

*2

サイクス・ピコ協定は、アラブ人に対しては秘密とされました。そして、協定協議中は、フサイン・マクマホン協定の担当者だったマクマホンにも知らされませんでした。マクマホンは、サイクス・ピコ協定成立後に、カイロに来たサイクスによって事後通知されたそうです。

サイクス・ピコ協定は、イギリスとフランスとの間の権益をかなり具体的に規定しています。その内容は、フサイン・マクマホン協定の実質的な内容を左右するものでした。それにも関わらず、フサインにも、英国側の当事者であるマクマホンにも、相談、連絡がなかったことが、ひときわだった事実として浮かびあがってきます。

イギリスが結んだ諸協定は波乱含みの内容でした。このことが、アラビアの地で任務に邁進するT.E.ロレンスにも、いずれ問題として降りかかることになります。 

(3)T.E.ロレンスの課された課題と目標

T.E.ロレンスに出された課題は、オスマン帝国に対するアラブ民族の反乱を現地で支援することでした。狙いは、オスマン帝国の側面を攻撃し、弱体化させることでした。

英国は、戦争終結後は、サイクス・ピコ協定フサイン・マクマホン協定とが信義則上の矛盾をきたすことは、先刻承知でした。そのことを踏まえると、現地のアラブ人の間に分け入り、個人的信用を作り上げなくては課題に取組めなかったロレンスにとって、この課題はかなりの「むちゃぶり」だったのではないでしょうか。

T.E.ロレンスに与えられた課題の戦略目標が、当初からどこに置かれていたのかは、よくわかりません。戦略目標の代替案としては、3つ考えられます。 

  1. サイクス・ピコ協定の英仏権益地域(赤・青色帯、A・B帯)より南方の地域(アラビア半島)でオスマン帝国を撹乱する。
  2. サイクス・ピコ協定で認められた英国権益地域(赤色帯・B帯)まで攻略する。
  3. サイクス・ピコ協定におけるフランス権益の地域(青色帯・A帯)まで攻略する。 

英国の意図の重点は、フサイン・マクマホン協定で、アラブ国家の独立を承認すると約束したが、国家の領域は確定していない点です。おそらく、英国は、アラブ民族が自らの力で獲得した地域でなければ、領土としては認めない所存だったのではないかと思います。

ロレンスは、任務から帰還後に執筆した『知恵の七柱』で、こう述べています。 

「私はそもそもの最初の会見からフェイサルに、自由なるものは与えられるべきものではなく取るべきものである次第を説いてきている。」*3

フェイサルとの最初の会見時には、果たして、ロレンスはサイクス・ピコ協定について知っていたでしょうか。

サイクス・ピコ協定は、1916年5月16日に成立しました。フェイサルとの最初の会見の時期は、ロレンスがアラビア入りした1916年10月以降から、フェイサルとの会見を事実として手紙に書いた1916年12月6日以前の間であったと推定されます。

ですので、フェイサルとの最初に会見した時点では、サイクス・ピコ協定はすでに成立していたことになります。しかし、ロレンスは、この協定については、知らなかったとされています。

ただ、重要な点は、ロレンスは、「自由は与えられるのではなく取るものだ」と強調している点です。深読みすれば、「アラブ民族は、戦争終結後、自国の領土を主張するには、自らがその地域を獲得していなければならない」と、自力尊重の原則を強調していたように理解できます。

英国人は、原理原則を重んじる風潮で知られます。英国が、サイクス・ピコ協定を背後でこっそり結びながら、平然としていた様は、「自由は自ら取る」という原則論を、究極の道義的拠り所として考えていた可能性はあります。

もしロレンスの課題の目標が、上記の3に置かれていたなら、サイクス・ピコ協定でフランスに約束された権益と、アラブ民族の獲得した領土は重なってしまい問題になり兼ねません。2なら、英国がアラブ民族に譲歩するかしないかの問題です。1なら何の問題もありません。

ですので、ロレンスの課された戦略目標がどこまでだったかは、極めて重要な論点です。

ポエタは考えます。ロレンスの戦略目標は、最初から、はっきりとは決まっていなかったのではないかと思います。

というのも、アラブ民族の装備は旧式であり、オスマン帝国のように近代化されていません。また異なる部族の寄せ集めであり、組織立った戦闘には慣れていませんでした。アラブ民族が実際どこまでオスマン帝国と戦えるかは、最初は誰も予想できなかったと思います。

ですから、なおのこと、アラブ民族が自ら獲得した地域をアラブ民族の国家の国土とする、という原則が英国上層部の中では働いていたのではないか。つまり、アラブ民族の領土獲得の実績状況に応じて、可能な範囲で目標を格上げしていくつもりだったのではないか。その上限は上記3のレベルの目標だったのではないか。ポエタは、そのように推定します。

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しかし、もしアラブ軍が、青色帯の奥深くまで進軍したら、英国の手に負えなくなります。ですから、ロレンスは任務中のどこかの時点では、正式に英国から進軍の限界についての指令を受けていてもおかしくありません。

実際には、アラブ軍はロレンスとともに、ダマスカス(A帯の端の方に立地)占領まで突き進みます。A帯には入っているので、フランスの権益と重なります。しかし、サイクス・ピコ協定では、A帯では「アラブ人の独立国家を許」してもよいとされていました。

戦後、アラブ民族主義者はシリアの独立を宣言しますが、連合国側の決定で、シリアはフランス統治下におかれます。フランスはシリアに進駐し、市民軍の抵抗を制圧してダマスカスを支配下におさめます。この事実をサイクス・ピコ協定との関係でどう見たらよいかは、興味深いところです。

ですが、今回の記事は、ロレンスがアラブ軍を指導した前期を対象としたいと思います。前期はアカバ占領までの期間です。その後のダマスカスへの進軍はまた機会をあらためて批評したいと思います。

冒頭に述べましたが、今回の記事で見ていきたいのは、ロレンスが抱えた重要問題である、以下の2点です。

  • 英国がアラブ民族との約束と矛盾する秘密協定をフランスと結んだ問題をどう考えるか。
  • 自分が本当に解決すべき課題をどこに見定めるか。

アカバ占領までの時期を対象に、ロレンスの活動内容と思考ロジックを見ていきたいと思います。

 

3 課題解決の方法論と真の課題設定

(1)反乱開始からウェジェフ占領まで

1916年6月5日、メッカにいたフサインは、一族を挙げてオスマン帝国に対して反乱を起こしました。イギリスの支援を受けたものの、必ずしも成功とは言えないまま、フサイン一族のオスマン帝国に対する敵対姿勢が明瞭となる結果になりました。

ロレンスは、失敗の原因をアラブ民族の指導性の欠如にあると考えました。そして、アラビアを訪問しました。目的は指導者の見定めです。フサインはすでに高齢でした。そこでロレンスは、フサインの子息に面会しました。アリー、アブドッラー、フェイサル、ゼイドの4名を観察した結果、フェイサルこそアラブ民族の反乱を指導する者としてふさわしい、と決め込みました。

そして、エジプトに戻って、上司に報告します。反乱軍の根拠地メッカを守るためには、フェイサルの側面攻撃によるべきである。

上司は、ロレンスの報告を受け、援助を約束します。そしてロレンスは、ファイサル付政治顧問兼軍連絡将校として、アラブの反乱の支援任務に着きました。

再びアラビアに来たロレンスは、新たな戦争計画の必要性を強く認識します。ロレンスは、オスマン帝国の主力部隊を無視し、オスマン帝国が物資や兵隊の輸送に用いていたヒジャーズ鉄道を側面攻撃する計画を固めました。計画遂行にあたっての重要拠点は、ウェジュフであり、これを占領することに、まず第一の目標を定めました。

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アラブ軍によるウェジュフ占領後、オスマン帝国はメッカへの進撃を断念し、メディナと鉄道の防衛に専念する受動的姿勢をとりました。ロレンスの目論見通りの結果でした。

メディナからの敵部隊退却の報せを踏まえ、英軍は退却する敵部隊を殲滅する要請をアラブ軍に出しました。ロレンスは協力要請のため、アブドッラーのもとを訪問しますが、赤痢にかかり、病臥しました。この病臥の間、ロレンスは自分たちの戦争の指導原則を再考し、実践的な思考を巡らしました。

(2)ロレンスの巡らした方法論の思考ロジック

オスマン帝国に対するアラブの反乱を支援するための方法論を構築した、ロレンスの思考ロジックは、際立ったものでした。その思考は、概略次のようなものでした。

「いまや、メディナを占拠する戦略上の必要性はない(メディナ敵部隊を殲滅する重要性は低い)。なぜなら、オスマン帝国の兵士を広大なアラビア半島に分散配置させた方が、敵の主力を避けるにはよい。そのためには、オスマン帝国に、メディナまで兵站を伸ばした状態を維持させた方がよい。

オスマン帝国は人を物的資源のように考え、人よりも物資を貴重と考えるが、アラブ軍は、正規兵ではないため、人は物よりも尊い存在であり、情緒的な紐帯で結ばれた組織である。

だから、オスマン帝国には、メディナにせっせと物資を送らせ、その間、アラブ軍はヒジャーズ鉄道を襲い、敵側に物的被害と改修の手間を与えつつ、アラブ軍は奇襲効果によって人的損害を最小限に抑えるのが得策である。

オスマン帝国帝国主義的な思考につかっているから、広大な地域を一応の支配下におさめればよいと考え続けるだろう。敵側の思考特性を利用し、アラブ軍は、アラビア半島の9割9分を自由に動き回って鉄道を奇襲し、オスマン帝国が残りの1分の鉄道沿線にしがみついてくれれば、敵側の活動はこう着状態におちいり、それでアラブ軍は優勢を保つことができるであろう。」

この時、ロレンスは、ゲリラ戦術が、課題解決の方法論であると見極めました。ロレンスは、このゲリラ戦術を、アラブの反乱という固有事例に即して、課題解決策に適用することを着想したのでした。

そして、ロレンスは、アカバ攻略を次の目標に定めました。

 

(3)ロレンスによる真の課題設定

ロレンスの考えたアカバ攻略の軍事的意義は、主に次の3つでした。

  • アカバ攻略後は、鉄道の大半部分が、アラブ軍による側面攻撃の脅威にさらされる。
  • アカバは地理的に、エジプトの英軍との情報連携を緊密にできる。
  • アカバは、英軍から食糧や武器などの軍事物資の供給を受けるのに有利な立地である。

そして、ロレンスは、次のように述べています。

パレスティナおよびシリアの征服に連合軍の右翼として行動することを、またアラビア語を話す人たちの希望すなわち自由な砂漠と自己の政府を確保することを願った。私の見解では、この反乱が主要な対トルコ戦に参加できないとあれば失敗であると告白せざるを得まいし、その付属のだしものの地位を脱し得まい。私はそもそもの最初の会見からフェイサルに、自由なるものは与えられるべきものではなく取るべきものである次第を説いてきている。」*4

ロレンスが秘めていたアカバ攻略の政治的意義が明らかです。アラブ軍を連合国軍(英軍)の右翼として動員し、単なる反乱軍の地位を、連合国軍の一翼に格上げすることです。そのことが、アラブ民族が、自ら独立の自由を獲得する上で必要であると述べています。

ポエタは考えます。ロレンスが示した政治的意図は、先ほど、病臥の最中に思い巡らしたゲリラ戦術を用いる方法論を考えた思考ロジックの次元をはるかに越えています。ゲリラ戦術は、アラブの反乱支援という個別の課題を解決するための方法論にすぎません。

ロレンスは、ここで考えを翻しています。たとえ、いくら、アラビア半島オスマン帝国の輸送手段に脅威を与える散発的ゲリラ戦を展開しても、対オスマン帝国戦争(対トルコ戦)に本格的に貢献したとは言えない。ロレンスが述べた、反乱軍を連合国軍の一翼に格上げする狙いは、戦勝後の国際交渉の場で、アラブ民族が発言力を確保するための布石を打つことにあったのではないか。ロレンスには、自分の課題認識を常にブラッシュアップする思考特性があるようです。

このロレンスの新しい着想は、サイクス・ピコ協定がアラブ民族に課した制約と照らしてみて、おおむね正鵠を射た課題の再設定であったと思います。サイクス・ピコ協定は、フランスに約束した権益まではアラブ民族には与えない内容でしたが、その裏に隠れた究極の根拠としての原理原則は、おそらく、「自分の領地は自分で獲得する」というものでした。ロレンスは、英国からはサイクス・ピコ協定を知らされていなかったとされています。ロレンスの再設定した課題と、秘密協定が依拠したであろう原理原則との釣り合いを、奇妙な符合ととるか、人間存在の原理原則を重んじたロレンスの思想が、時機を得るのに大であったととるかは、見方が別れるところだと思います。

いずれにしろ、ロレンスは、アラブ民族の人心に触れ、死と隣合わせの作戦遂行を共にする中で、独立国家達成というアラブ民族の悲願に対して、真剣な思考を巡らし、真の課題を自分の意思で再設定したことは、確かだろうと思います。

1917年7月6日、ロレンスの率いるアラブ軍は、アカバを陥落させました。

 

4 最後に

(1)秘密協定問題について

1917年3月にロシアで二月革命が起こります。新しい革命政府は、旧政権の公文書を調べ上げ、サイクス・ピコ協定を発見しました。その動きを察知したオスマン帝国は、アラブ軍の動きをけん制するために、この秘密協定の内容を世界に暴露しました。

この秘密協定についての噂が、アカバ攻撃の途上にあったロレンスたちの耳に入りました。ロレンスはアラブ人たちから詰問にあいました。ロレンスは、何とか質問をかわしながら、誓いを立てます。 

「そこで報復的に私は、アラブ反乱をしてわがエジプト戦に十分奉仕させると同時にまたその目的貫徹の推進力たらしめようと誓い、かくして彼らをただ一途に最後的な勝利に導き、その結果当然列強もアラブ人たちの道義にかなう要求に適切な解決をとらざるを得ないようにしようと誓った。そのためにのみ私は、戦を生きぬいて講和会議室での最後の戦をかちとろうとした-それは身のほどしらずの予定でもあろうが、その充足にはまだ負債がのこされている。しかし欺瞞という事実は、依然として別の問題であった。」*5

要するに、ロレンスは、アラブ民族が最終的に勝利すれば問題ないのだ、という言い訳を述べ、心痛を忍ばせているのである。たとえ勝利しても、欺瞞に満ちた協定を結んだ問題は、信義の問題として残るからです。

しかし、これで、ますます一層、アカバを攻略し、アラブ軍を連合国軍の一翼に格上げして戦果をあげることが、現実的な課題として重くロレンスの肩にのしかかったのでした。

この後、6月4日から同18日まで、ロレンスは一時戦線を離脱しています。この間のことは、ロレンスは『知恵の七柱』ではほとんど述べていません。少しばかり判明している事柄もあるようですが、いろいろと憶測の対象になっているようです。

ここでポエタの見解は述べませんが、ただロレンスは情勢の変化に四苦八苦しながら、微妙な問題を処理しようとしたのではないかと思います。 

(2)T.E.ロレンスのリアリズム

ロレンスは、鉄道を爆破し急襲する劇的な戦術で有名です。ゲリラ戦術に長けた異色の英国軍人としての印象が色濃いですが、ロレンスは、オスマン帝国の思考特性とアラブ軍の心理的特徴を組み合わせた、絶妙な方法論としてゲリラ戦術を位置付けた点に、際立った思考力が発揮されています。

この発想は、ロレンスが、実際にアラビア半島に身を投じ、アラブ人と直に接し、戦闘に加わる中で、すりこまれていった現実感覚を素地としていることは、ほぼ間違いありません。

ロレンスは、戦場では全てが具体的であると述べています。そして、戦略論、戦術論はあくまで抽象的な理論であり、自分の任務には、あまり役に立たなかったと述べています。ロレンスが直面した問題は全て現実であり、解決策の発想の源は現実そのものでした。

ロレンスは、砂漠という極めて厳しい気象条件で、異邦人とともに戦うという、前例のない困難な任務の中で、冷静に現実の底に思考の糸を垂らし、生まれた発想を吸い上げて、死の危険をも伴う実践に活かした稀有なるリアリストであったと言えるでしょう。

ロレンスは、秘密協定の風聞に接した際に、アラブ人に詰問されて立てた誓いの内容を、半ば自嘲的に振り返っています。いくら勝てばよいと言っても、欺瞞の問題は避けられないのだと。しかし、ロレンスが、秘密協定を知らなかったのであれば、欺瞞の問題は、ロレンス一個人にとっては、どうしようもありません。政治家に解決してもらうしか、しようがありません。これについては、チャーチルが戦後に解決したとされています*6

秘密協定が暴露されたとなれば、ますます、アラブ軍が連合国軍の一翼として対オスマン帝国戦で戦果をあげることが、彼自身にとっての、至当な課題となったのです。結果、ロレンスとアラブ軍は、ダマスカス入城を果たしました。この成果がなければ、戦後処理の運営は出口の見えないものとなっていたでしょう。土壇場の取り組みであったとはいえ、ロレンスの功績は、大なるものがあったと推定できます。ロレンスが賞賛されてしかるべきリアリズムは、アラブ民族にとって絶対に必要であると予想された理想的条件を、見事な既成事実にまで具現化したことです。

(3)まとめ

  • ロレンスが与えられた課題は、オスマン帝国に対するアラブの反乱を支援することだった。
  • 英仏間で結んだ秘密協定であるサイクス・ピコ協定は、イギリスがアラブ民族と結んだフサイン・マクマホン協定に対する背信的内容を秘めていた。
  • ロレンスは、任務中に実践を重ねる中で、自分の課題についての思考をどんどん深めていった。
  • ロレンスは、アラブ民族が自らの自由は自ら獲得する原理原則に立脚し行動することに職責をかけ、連合国軍の一翼としてオスマン帝国に対する主要な戦果をあげることを課題に置き直した。

  • 現場にいるロレンスは、英国の国益とアラブ民族の理想との間で板挟みにあったが、自己の真の課題を設定し直したことで、方向性を見出した。
  • 最終的に課題を解決したことで、ロレンスは戦後処理に出口を設けることのできる既成事実を作り出すことに貢献した。 

最後まで読んでもらい、ありがとうございました。 

今回はこれまでです。

 

ポエタ

<主要参考文献>

中野好夫アラビアのロレンス岩波新書岩波書店、2013年

T.E.ロレンス『知恵の七柱1』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1989年

T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年

 

*1:中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.45、より一部要約)

*2:中野好夫アラビアのロレンス岩波新書、2013年、P.47-48、より一部要約) 

*3:T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.82) 

*4:T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.82)

*5:T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.85) 

*6:T.E.ロレンス『知恵の七柱2』柏倉俊三訳、東洋文庫平凡社、1990年、P.92注書き)

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