課題の教科書

Critical Realism for All Leader

ソロンの改革で課題解決の成否はプロジェクト・オーナーが鍵だった

こんにちは。ポエタです。

今回は、事例編です。

古代ギリシアアテネの歴史に残る「ソロンの改革」で実行された、課題解決策について批評します。

目次です。

1 課題の概況

(1)課題設定に至る経緯

ソロンは、名門の家に生まれたものの、父親が親切で他人への経済的支援を惜しまなかったため、財産に恵まれませんでした。ソロンは、自ら航海で各地を巡って財を成し、身を立てたと言われています。

当時のアテネは、サラミス島の領有を巡って、近隣の都市国家メガラと戦争状態にありました。アテネは、そのために疲弊し始めて、厭戦気分が高まっていました。それで、アテネでは、サラミス島の領有を主張することが、法律で禁じられました。

ソロンは、このことを不満に思い、一計を案じて戦争の機運を高めました。まず、ソロンは、気がふれたふりをしました。法律など頭にない人のふりをしたのです。そして、広場に出て、公衆の面前で、サラミス領有を目指すための詩を歌いあげました。その場にいたサクラが、その詩の出来栄えをほめたたえ、民衆の間で、戦争の機運を盛り上げました。

サラミス奪取の期待を一身に集めることに成功したソロンは、対メガラ戦の指揮官となりました。要は、ソロンは、大衆の「ノリ」でのし上がったわけです。その結果、ソロン指揮下のアテネ軍はサラミスを占領し、ソロンは一気に名声を高めることになりました。

その後、アテネは内政の混乱が深刻化します。国内の地域別に党派が形成されました。アテネ都市国家なので、市街地は、海沿い近くの一拠点に集約されています。しかし、アテネ周辺の地域(アッティカ地方)は、いくつかの地域に分けて認識されており、どの地域を権益の基盤とするかで、党派が分裂していたのです。

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党派は、山地党、平地党、海岸党の三つです。微妙に地域性が異なり、農業の生産性にも差があったと考えられます。この三つの党派は入り乱れて政治的に争い、その争いに富裕層と貧困層との格差問題から生じる階級闘争が重なりました。

そこで、アテネの混乱状況を憂慮した、一部の問題意識の高い特定の人々が、混乱打開のための白羽の矢をソロンに立てました。ソロンを選んだ理由は二つです。

  • 富裕層の側に立って不正を働いていない。
  • 財を成していたので、貧困層に落ち込んでもいない。

つまり、ソロンは、階級闘争のどちらの当事者にも肩入れしていないため、公正中立な立場で改革を実行することを期待されたのです。そして、最初はためらっていたソロンも、アルコン(一種の行政官)かつ調停者に就任しました。当初ソロンがためらった理由は、富裕層の傲慢さと貧困層の金銭欲のそれぞれ両方を恐れたため、と言われています。

しかし、ソロンのアルコン就任は、富裕層からも貧困層からも大歓迎されました。その理由は、ソロンの出自は、富裕層にとって安心感があり、ソロンの平生の主張が、貧困層にとっては、なじみやすいものだったからでした。

 

(2)ソロンが取り組んだ課題と問題の原因

ソロンが解決すべき課題は、アテネの内部抗争を治めることでした。ソロンに白羽の矢を立てた、問題意識の強い特定の人々は、そのことを期待していました。ソロンに期待したこの特定の人々は、おそらく貴族階級であり、ソロンが指導したプロジェクトのいわばオーナー(発注者)でした。

しかし、ここで問題があります。アテネの内部抗争を治めることがソロンの課題でしたが、ソロンが解決しようとした問題の原因がはっきり見えてこないのです。

先ほど、三つの党派が政治的に争っていたと言いました。その争いに富裕層と貧困層の階級対立が重なったと言いました。ソロンが内部抗争を治めるには、内部抗争の本質的原因を掴まなければなりません。しかし、ソロンが実行した改革内容を踏まえると、ソロンが考えていた内部抗争の原因は、深掘りが不十分です。

ポエタは、考えます。ソロンは、経済格差の解消に焦点を当てて、改革を開始しましたが、これは、「経済格差が解消すれば、それに連れて政治的対立もやむだろう」という見通しに基づいていたのではないか。ソロンは、ヘクテモロイと呼ばれる貧困層の救済を行い、次に階級制度改革で富裕層を優遇する二段構えの改革を実行しています。ソロンは、富裕層にも貧困層にも利益を供与することで、内部抗争を治めようとしているようです。しかし、ソロンの改革は、結局はアテネの内部抗争を平定するには至りませんでした。

ポエタは考えます。ソロンの改革が失敗したのはなぜか。ソロンが採用した二段構えの見通しが甘かったのではないか。それは、政治問題(党派争い)と経済問題(格差問題)とが、複雑にからみあう内部抗争の原因の読み解きが、浅かったのではないかと思います。

今回の記事では、ソロンの課題解決策が失敗した理由を見ていきたいと思います。「なんだ、失敗理由か。それじゃー参考にならないよ。」あなたはそう言うかもしれません。今回の記事では、失敗事例にも、課題解決の参考になる引き出しは、いっぱいあることをお伝えしたいと思います。

 

2 課題解決策

(1)基本的アプローチの代替案と選択の決め手

ソロンには、課題解決の基本的なアプローチとして、2つの選択肢がありました。一つは、僭主(独裁者)になることです。もう一つは、立法措置によって改革を実行することです。

内部抗争を平定する大改革を成し遂げるには、強力な権力が必要です。僭主になることは、改革の推進力をえる上で、一つの方法として、ソロンの脳裏にはあったと思います。

実際、ソロンはアルコンに選ばれた後、一部の人から、僭主になるように促されました。しかし、ソロンはその誘いを断りました。ソロンが述べた拒否の理由は、僭主になると出口が見えなくなるから、というものでした。

ポエタは考えます。僭主になれば、全責任は全てソロンの身の上に降りかかってきます。それに僭主となれば、プロジェクトオーナーたる有力者よりも上に立つことになり、これまでの経緯で積み重なった人間関係や約束事の前提を全てぶち壊すことにもなりかねません。もしそうなったら、ソロンは、僭主になって権力を得る一方で、手数の多くを失うことになります。

ソロンは、商人として身を立てた人です。商売の才は、合理的思考に支えられます。ソロンにとって、僭主となる選択を選ばないのは、経緯を踏まえると合理的だったのではないでしょうか。ソロンは、2つの選択肢のうち、立法措置によって改革を推進するアプローチを選びました。

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おそらく、ソロンにとって、代替案選択の決め手は、課題解決のニーズをもった問題意識の高い特定の人々の存在でした。この特定の人々、つまり実質的なプロジェクトのオーナーを差し置いて、自分本位で改革を進める動機は、そもそもソロンにはないでしょう。

なぜなら、もともと、この改革はソロンが始めたことではありません。ソロンは、改革推進者の白羽の矢が立ったときに、課題を担うことをためらっています。仕事をうけたソロンにとって、プロジェクトオーナーのニーズの枠内で仕事をすることは、課題解決における絶対条件だったはずです。

しかし、このことが、ソロンがとった課題解決策に限界をつくることになります。ソロンがこの仕事を引き受けた以上、そのプロジェクト・オーナーのニーズは、ソロンの脳裏を絶対的に支配しました。仕事をする上で、発注者のニーズからは一歩も出られない。ソロンの改革の内容をつぶさに見ていくと、そういう教訓がわたしたちに投げかけられます。

 

(2)ソロンの実行した課題解決策

ソロンの実施した主な課題解決策は主に、次の3つです。

①農民階級「ヘクテモロイ」の「重荷下ろし(セイサクテイア)」と「標石の除去」
②所有資産に応じた政治階級制度の構築(ティモクラティア)
③その他旧法(ドラコンの法)の改廃

 

①農民階級「ヘクテモロイ」の「重荷下ろし(セイサクテイア)」と「標石の除去」

これについては、以前コラムで詳細を述べました。詳しいことは、これを読んでみてください。

www.critical-realism.com

アッティカ地方に植民されていた農民の地代の支払いは、これで免除されました。これで、アッティカの農民の経済的負担は軽減され、貧困層の不満の一部は解消しました。

次に、ソロンが打ち出した解決策が、次の②の施策です。

 

②所有資産に応じた政治階級制度の構築(ティモクラティア)

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これを見ると、収穫量を基準として経済力で政治的権利を規定しています。その狙いは、政治力と経済力との間のアンバランスを解消する点にありました。しかし、収穫量の多い富める者の階級が高く、貧富の差を助長しているようにも読みとれます。

ただ、ソロンは、この階級制度の中に、平民階級が政治的な権利を主張するための仕組みを組み込みました。

  • 不正が起きた場合に当事者以外でも賠償を求める権利を行使できる。
  • 民会(≒民衆裁判所)への審理付託

一つ目の賠償を求める権利。この権利は、「誰にでも」あったので、第四階級でも行使できるようになった点が画期的でした。

二つめの民会への審理付託。民会は、第四階級によって組織されました。「審理付託」がどういう名目で行う手続きであったかは不明とされています。しかし、平民に一定の裁判権を認める措置であることは、ほぼ間違いなく、平民の政治的権利が拡充されました。

ソロンは、階級制度を再構築する上でも、平民階級の政治的権利の拡充には配慮していたことがわかります。

ところで、この階級制度改革(ティモクラティア)には、ソロンが想定した、内部抗争の原因が何だったかが現れています。

最初のヘクテモロイを対象とした「重荷下ろし」は、経済的格差の解消を狙っています。しかし、その後の階級制度改革(ティモクラティア)は、富裕層の政治的権利を優遇して、既得権益を固定化しつつ、経済的格差が貧困層に強いた政治的不平等をも解消しようとしています。つまり、階級制度改革は、富裕層と貧困層それぞれに利権を融通する改革なのです。ソロンは、内部抗争の原因を、単に富裕層と貧困層との争いであるととらえ、両方に利益を供与すれば、内部抗争は治ると考えていたふしがあります。

ポエタは考えます。当時のアテネで繰り広げられた政治闘争は、生産性が異なる3つの地域を地盤とする各党派同士(山地党、平地党、海岸党)によって行われました。先ほど、ソロンによる問題の原因分析が不十分だと言いました。アテネの内部構想の原因は、党派ごとに生産性の異なる地盤が、経済格差を生み出し、それが政治的闘争を誘う不満の温床だったことです。この原因を取り除くためには、単に富裕層と貧困層のそれぞれに利益を供与するだけでは、内部抗争の火種はおさまりません。なぜでしょうか。

ポエタは考えます。経済力(収穫量)を基準に政治階級を再編しても、経済力に劣る地域を地盤とする党派は、自分たちの政治力が衰えるだけですから、納得しなかったでしょう。階級制度改革で、補足的に平民(貧困層)の政治的権利を一部拡充したくらいでは、単なる付け足しであり、中途半端で納得がいかない。それでは、政治闘争が逆に活発化し、アテネ社会は不安定化したはずです。ソロンが行った階級制度改革では、政治闘争は解決しないのです。

先ほど、引用したコラムでは、「ヘクテモロイ」の正体について、2つの説を比較しました。①没落土地所有農民説であれば、「重荷下ろし」によって、農民の土地所有権が確立します。つまり、農民が保有する土地の収穫量は増したと考えられます。土地の収穫量が多ければ、より上位の階級の基準に当てはまったかもしれません。だとすれば、農民の政治的権利は拡大した可能性があります。

しかし、ポエタは、②アッティカ農民説を仮定として、採用しました。理由はコラムで述べたとおりです。このアッティカ農民説だと、農民は貴族所有の土地を耕しているだけですから、階級制度改革があっても、政治的権利はほとんど拡大しません。

つまり、「重荷下ろし」に、階級制度改革が付け加わっても、一気に貧困層(農民などの平民)の政治的権利を拡大する波及効果は生まれません。ソロンの改革は、貧困層にとっては、中途半端な改革でした。

ソロンは、抜本的に、党派と地盤(地域性)との結びつきを断ち切る必要がありました。内部抗争の原因は、党派と地盤との強い結びつきだったからです。このような着眼が欠けていたことが、ソロンの改革が失敗に終わった理由ではないかとポエタは考えます。その後、クレイステネスは、この着眼に沿って、さらなる改革を実行しました。

しかし、ソロンの改革には、評価すべき点もありました。それが③の解決策です。ソロンは旧来の法を抜本的に改定し、新たな法を打ち立てました。

 

③その他旧法(ドラコンの法)の改廃

たとえば、ソロン以前には遺言の制度はありませんでした。ソロンは初めて遺言に関する法律を制定し、誰でも、自分が望む者(息子以外でも)に財産を遺贈することを許しました。ソロンは、単なる形式的な親族関係よりも親愛の情を重んじたのです。

また、アテネと周辺のアッティカ地方には、ほうぼうから安全を求める避難民が流入してきていました。しかし、アテネ周辺には痩せた土地が多かったので、食っていくのが大変でした。海を渡って貿易するにしても、何か売るものがなくては、食糧は手に入りません。そこでソロンは、売るものを生産するために、技術習得を奨励する法律を制定しました。

ソロンは立法の精神について語っています。

「契約の場合で言うと、かりに違反しても、いずれの契約者にとっても有利にならないなら、ちゃんと守られる。わたしは、法律に背くよりは、正しくふるまう方が有利だということを市民たちに示して、その線に添って法律を施行するのだ。」*1

ソロンは、理にかなった立法を心がけました。実際には後世非難される立法もありました。しかし、ソロンは法律に合わせて国を作り変えるよりも、国の実情に合った法律の制定を目指しました。

ソロンが徹底しようとした法治主義は、民主主義の根幹をなす理念であり、リアリズムと言えるでしょう。この点は、ソロンの改革を評価する上で、プラスポイントだと思います。

 

(3)改革の結果

ソロンは、改革がひと段落した後、十年は戻らないと宣言し、海外に旅立ちました。というのも、人々が、ソロンに法の内容について難詰したり、質問ぜめにしたりして困り果てたからでした。ソロンは、自分が立法者として、法の説明をするより、人々が法の理解に慣れ、法の言葉通りに実行することが正しいと考えました。それで、国から旅出ちました。

しかし、ソロンが旅から戻ってきた目の当たりにしたのは、改革の目的が実現せず、内部抗争がやむことのなかったアテネでした。ソロンの改革は事実上の失敗に終わりました。

また、ソロンは、利権を減らされた貴族側からはうらまれ、土地の再分配を期待していた平民層からは、期待はずれだと思われ、あまりいいことはありませんでした。

ソロンが、アルコン就任を渋ったときに述べた理由を振り返りましょう。「富裕層の傲慢さと貧困層の金銭欲のそれぞれ両方を恐れたため」です。この言葉は予見的であり、ソロンは、その点では、優れた現実感覚をもっていたと言えるでしょう。

 

3 考察

(1)まとめ

ソロンは、合理的思考力のある人でした。しかし、党派と地盤との関係を断つ発想で改革を実行することはしなかった。実に惜しい。

ソロンは、党派と地盤との関係を断つ発想は、本当になかったのでしょうか。ソロンには、その発想くらいはあったかもしれません。おそらく、ソロンがそこまで断行しなかった理由は、プロジェクト・オーナーとの関係にあったと思います。プロジェクト・オーナーは、統治問題に問題意識の強い人たち、おそらく貴族階級です。

ソロンは、貴族階級(富裕層)と平民階級(貧困層)との間に立つ、中立的な立ち位置を見込まれて、アルコンに就任しました。ソロンは、中立的であるがゆえに、ある程度、貴族階級の利権に切り込むが、あまり極端なことはしたくない。階級制度改革によく表れているように、富裕層(既得権益)の優遇と経済的弱者の政治的権利の拡充という2つの狙いを、「折衷的」に追求しています。真の原因を踏まえた「抜本的」改革とは言い難いところです。

もともと、ソロンは、白羽の矢が立ったときに、アルコンへの就任をためらっています。本当の改革の主体者はプロジェクト・オーナーです。党派と地盤の関係を分断する改革は、プロジェクト・オーナーの既得権益をも揺るがす大きな影響をもたらしたでしょう。

ソロンが、強いニーズの源泉であるプロジェクト・オーナーに気兼ねしたかはどうかわかりませんが、ソロンの改革が不徹底だった背景には、プロジェクト・オーナーとの関係によって生じる「思考の壁」にあったと思います。

現代のビジネスの現場でも、プロジェクトの成否は、その発端や経緯の中で規定される根本的な枠組みに大きく左右されます。ソロンが僭主にならなかった理由も、おそらく、プロジェクト・オーナーとの関係があったからです。

ソロンの頭脳の中で、党派と地盤の分断という着眼が、うっすらと芽生えたとしても、実行できなかった背景は、そのように推し量ることができるのではないでしょうか。

  

(2)ソロンのリアリズム(現実主義)

ソロンは、党派と地盤との強い結びつきという現実を十分に踏まえることができませんでした。それは、リアリズムの欠如です。しかし、ソロンは、先ほど言ったように、別のリアルな背景(プロジェクト・オーナーとの関係)を抱えていました。ソロンのリアリズムの成熟ぶりは、なかなか判断が難しいところです。

ソロンの改革後、アテネは、内部抗争の中で、僭主の台頭を招きます。ペイシストラトスという僭主です。ソロンは、ペイシストラトスの台頭を予期し、アテネ市民に警戒を促しましたが、ペイシストラトスは計略も交えながら、僭主の座に就きます。

ペイシストラトスの僭主化は、元を正せば、ソロンの改革が不徹底なため、政争の火種がくすぶっていたから起きた、と言えなくもない。

ポエタは考えます。ソロンは、自分が僭主にならないくらいですから、僭主を嫌っていました。だったら、なぜ、ソロンは改革を中途半端にしたのか。改革に着手するにあたって、ソロンは次の問いを自らに対して立てて答えるべきだったと思います。「党派と地盤の関係を断ち切る大改革を断行しますか。それともプロジェクト・オーナーに配慮して、僭主台頭のリスクを負いますか」。ソロンの改革の主体者は、ソロン自身だったのです。

ソロンは、折衷的な改革でなんとかしたかった。二段構えで、徐々に改革を軌道に乗せたかった。しかし、結果からいえば、その見通しは甘かった。こういう甘い見通しの上に立って改革を実行したソロンの脳裏で、先ほどのような本質的な問いは出てこなかったに違いありません。

ソロンの改革の「主体性」こそが、問われなければならなかったでしょう。

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ソロンが、大改革を断行したら、そこまで求めていないプロジェクト・オーナーとは仲違いしたかもしれません。すると、ソロンは後ろ盾を失いますから、権力基盤を固めるため、僭主となって強権を振るったかもしれません。ソロンには、そんな気はサラサラなかったとは思います。だから、折衷的な改革ですませたのでしょう。しかし、本気で政治闘争を終結させるために内部抗争を平定させるためには、それくらいのことをしなければならなかったかもしれません。

 

(3)最後に

まとめです。 

  • ソロンは僭主の座を選ばず、立法措置で階級対立の平定に取り組んだ。
  • ソロンの法治主義の理念は、理にかなった法を制定する合理主義だった。
  • しかし、党派と地盤の強固な結びつきという根本問題は先送りされ、党派争いはやまなかった。
  • ソロンの改革には、党派と地盤の結びつきを分断する発想がなかったことが、改革失敗の理由と考えられる。
  • その背景として、改革の発端からプロジェクト・オーナーとの関係に支配されたソロンの思考回路には、真の主体性は誰にあるのか、という問いが欠如していたように思われる。

今回の事例編、最後まで読んでもらい、ありがとうございました。

 

ポエタ 

 

<主要参考文献>

ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(上)』加来彰俊訳、岩波文庫、1992年

プルタルコス『英雄伝1』柳沼重剛訳、西洋古典叢書京都大学学術出版会、2007年

アテナイ人の国制」『アリストテレス全集19』橋場弦訳、岩波書店、2014年

塩野七生ギリシア人の物語Ⅰ民主政のはじまり』新潮社、2015年

 

2018年9月9日改

*1:プルタルコス『英雄伝1』柳沼重剛訳、京都大学学術出版会、2007年、P.235)

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