課題の教科書

Critical Realism for All Leader

クリティカル・リアリズム試論|至当性とは何か

リアリズム(現実主義)とは、至当性である。至当性とは、至って当然、至極もっともなことである。それが最善であるという保証は、一義的には存在しない。至当性の意味を究明することが、クリティカル・リアリズムの課題である。かつて、そう述べた。

至当性は、究極の目的として、頭上に輝く星を指すのではない。個別具体的な状況で、問題に対処し、正しい判断を下すことである。それは、常日頃、いくつもの実務の現場で要請される、実践者のあり方である。

「個別具体的」とは、どういうことか。それは、法律問題なり、文化問題なり、経営問題なり、それぞれの問題が生起する領域ごとに、君臨する目的が異なることを意味する。至当な判断とは、その目的ごとに正しい判断を下すことである。

至当な判断が最善であるとは限らない。なぜなら、最善とは、この場合、個々の問題領域を統整する究極目的だが、その内容は抽象的でよくわからないからだ。だから、至当な判断はできても、最善の判断は、できないかもしれない。だから、現実には、個々の問題領域で、至当な判断を下しても、巡り巡って新しい問題が、いずれは起き始めるだろう。

しかし、その度に、めげることなく至当な判断を下せばよい。その絶えざる微調整が、至当性に叶う行き方である。これは、ある種の楽観主義だ、と批判されるかもしれない。しかし、それ以上に善いどんな行き方があるのだろうか。最善の意味を知りたい。

個々具体的な判断が、その所属する領域の目的に照らして正しい時、至当だ、という実感は抗しがたい説得力で迫ってくる。なぜなら、目的との関係において、その判断は正しい手段に当てはまっているからだ。目的と手段の整合性は、すなわち、合理的であることを意味する。たとえ最善でなくても、合理的であれば、それはそれで善い判断であると言える。

合理的な判断の積み上げによって、未来の幸福が招来するのを期待するのは、単なる楽観主義であろうか。理性主義が単なるお題目を脱皮し、実践の幹を成す時、晴れ晴れとした当人の表情は、確かに悠悠とするだろう。しかし、それは単に楽しようとする人間のあり方ではない。

そうは言っても、ここで述べてきたことは、一種の一般論でしかない。至当性が個別具体的だと言うなら、至当性の内容を個別具体的に語らねばならないだろう。人間が、問題が生じた状況において、矢面に張り付けにされた時、力を尽くして考え、決断し、行動した結果、成功し、あるいは失敗した事例に、学ばねばならないと思う。 しかし、事例研究は、役に立つノウハウ集の編纂ではない。

事例研究は、当事者が不可測な事態で枝葉を断ち切る決断を下した状況を、さも最善が約束された判断であったかのように、後から神話化する。そう言う神話を読んで、勇気百倍を得ることが悪いわけではない。しかし、現に予測不能な問題が猛威を振りまきながら迫ってきたとき、事例集をひもとく余裕などない未知が、遠慮なく広がる。至当な判断には、最善の保証などないところに、人間という問題が大きくそびえ立つ。

リアリズムの判定は、リアリズムの担い手を浮かび上がらせるのが主目的である。至当性の意味を明らかにするのは副次的な目的である。取り組み事例の検証は、至当性の側面を浮かび上がらせ、概念の奥行きを見定めることだ。至当な判断を導く条件と手順を明確化することが狙いではない。

リアリズムの担い手が、どこかの領域自体であるとしたら、問題の解決は、領域内の目的と手段の関係には収まらなくなる。数多の領域を超越し、全体を統整する目的、つまり最善とは何か、という解き難い問題に出くわす可能性がある。なぜなら、領域同士のリアリズムを比較し、その善し悪しを比較するなら、それぞれの領域を超えた高次の目的に立ち返る必要があるからだ。こうなってくると、リアリズムは、単なる個別具体的な至当性を究明するだけでは、済まなくなる。この論点は、引き続き検討したい。

 

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