課題の教科書

Critical Realism for All Leader

ヘーゲルの『法哲学講義』|最善の罠と至当な判断|臆病は大敵

随分前に、ヘーゲルの『法哲学講義』を読んだ。大半が難解で、ちゃんと読めた気がしなかった。それでも、所々で思わず目を開かされ、傍線を引いた箇所がある。その一つが、ヘーゲルの引いたフランスの諺である。

「善の最大の敵は最善を求めること」(ヘーゲル法哲学講義』長谷川宏訳、作品社、2007年、P.427)

若干シニカルだが、的を射た言葉だと思った。しかし、何がどう的を射ているか、については余り考えたことがなかった。そこへきて、「至当性」の内容について考えていると、至当性の意味をはっきり理解するのに、このフランスの諺は、ぴったりの題材なのではないか、と思い至った。 

手元に至当な判断があるなら、それより善い案は探し求めない方がよい。無い物ねだりで、決断のタイミングを遅らせるより、手元にある案が至当なのだから、えい、と決めてしまった方がよい。 

決断力のないお殿様が、せっかく優秀な家臣が至当なプランを献策しているのに、「君、優秀そうだから、もっと楽できるいい方法を考えてくれる?」と言いたげに、もっと善い案を出させる。わかりやすいイメージでいうと、こういう場面に象徴される、不決断は、お家滅亡の明らかな兆候である。 

ヘーゲルは、こう言っている。 

「善に満足せず、もっとよいもの、もっとすぐれた善行を求める人は、善に至ることがありません。どんな法典でももっとよくなるはずだ、と言ったいい草は、ものごとをきちんと考えない人が、なんにつけ口にすることばです。どんなに立派で、高級で、美しいものでも、もっと立派で、もっと美しいものを考えることはできるのです。」(前掲書、P.427) 

より善いものを探し求めようとする背景は、その人が観念論に浸るからだ。至当な判断が目の前にあっても、それ以上のよい案は、観念的には確かに存在する。だから、もっとよい案を求めて、至当な案を台無しにしてしまうのである。 

ヘーゲルは、さっきのフランスの諺について、こう言っている。

「フランスの諺は、屁理屈やくだらぬ反省をはじきとばす、健全な常識の言である。」(前掲書、P.427)

ここで言う「常識」とは、判断力のことであろう。深読みすると、現実感に支えられた判断力のことであろう。

実務家は、ゴタゴタした問題が起きたときに、理念から演繹的に対策を展開したり、完全無欠な対策の証明を求めたりはしない。起きている事実に照らして、至って当然、至極もっとも、と多くの人がうなずく、案を一つでも出せればよい。

それで、完全解決せず、後になって、新たな問題が巡り巡って来たとしても、また至当な判断を下せばよい。そういう、絶えざる微調整が、実務家の肌感覚であろう。 

平たく言えば、臆病は大敵である。臆病な人は、またゴタゴタが起きるのを嫌がって、最善を求めてしまう。問題を完全になきものにしようとするのは、臆病の癖である。

至当な判断を至当足らしめるのは、判断する人自体である。

 

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