課題の教科書

Critical Realism for All Leader

クリティカル・リアリズム試論|リアリズム(現実主義)とは何か

ところで、リアリズム(現実主義)とは何なのか。この論点には、まだきちんと答えていなかったと思う。これまで、「リアリズム(現実主義)」の中身を、現実に根を下ろす、現実に回帰する、理想を課題になるまで成熟させる、とかいろいろな表現で、ごまかしてきた。今時点の、精一杯の努力で、現実主義を試しに定義すると、現実主義は至当性である。こうなる。

 では、至当性とは何なのか。これまでの批評文を思い出して、至当性の例を挙げてみよう。

一つ目。個人が自由を謳歌することが、市民社会の進展に直結するような、全体の枠組みを構築する指導理念。人間の本性を平和に活かす知恵に、至当性を見出すことができる。

二つ目。近代化において確立した自我が、利己主義の陥穽に落ちる問題に対し、個の存在を否定せず、しかし、他者の個にも自分の個と同等の価値を置き、問題に対処しようとする、淀みない立場。この偏りのない立場の透明性には、至当性が備わっている。

三つ目。歴史的に練磨されてきた常識を、政治判断の基礎におく立場を保守主義とするなら、革新は、歴史的現実を言い訳にして、既得権益をむさぼる堕落した階級を、引きずり下ろし、理想的な公平社会を実現するため、理性を尊び良識を讃える。このような、保守と革新の混み入った対立において、政治家が、恒久平和の理想を中心点として、常識と良識が調和した賢明な判断を下すことは、まさに至当性を備えている。

「崖の上を張り渡された縄」とは、かつて、人間についての比喩に登場した道具立てだったと思う。至当性とは、いわば、張った縄にみなぎる震えんばかりの緊張である。残念ながら、現時点では、至当性の内容は、例えか、喩えでしか言えない。

ところで、最善とは、至当性のことなのではないか。ふと疑問がわいた。しかし、最善という概念の大きな問題は、現に何が最善かは、どう頭をひねっても、わからないことだ。上記の三つの至当性の例は、本当に最善といえるだろうか。最善と言い切る理論的根拠はないと思う。ただ、しかし、至当だ、という感触だけが手元に残る。至当とは、平たく言えば、極めて当然という意味だ。ともあれ、至当性は、遅れてやってきた最善なのだが。

私は、至当性の何たるかは、今の時点では、明らかにできない。しかし、今後も、至当性の例、至当な判断の事例の検証を積み上げていきたい、と思っている。リアリズム(現実主義)の核心には、至当性が潜んでいると思う。そのことの説明付けを、抽象論として究明しようとしても、単なる言葉の問題として、お遊びのような時間を費やすだけだ。もっとも、何事も、いずれは抽象論として理論的考究が必要になることは、否定しない。しかし、まずは具体例に即して、至当性の様々な側面を、浮き彫りにする作業から始めるべきではないか。それが、いま考えている、リアリズムの判定という仕事の狙いである。

リアリズムの判定には、二つの狙いがある。

一つはリアリズムの担い手を浮き彫りにすることだ。

もう一つは、リアリズム(至当性)の意味を具象的に明らかにすることである。

この二つの狙いを、同時に追求するのは、矛盾だ。しかし、敢えて矛盾を背負って、アクチュアルな課題に取り組みたい。 

 

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