課題の教科書

Critical Realism for All Leader

アリストテレス『ニコマコス倫理学』について|善の探求に向けた現地点

私は、心底密かに、善の探求を志している。善とは何かを概念として、知りたいのである。そのためには、まず善を探求するアプローチを構築しなければならない。このブログで書く行為も、ある意味ではその一環である。それ以外にもアイデアの素を集めてはいる。しかし、これぞ、という道筋は、まだ発見していない。理論的には、色々言えても、実践となると、もろく崩れやすい道でしかないのだ。 

かつて、正義論について、考えた。普遍的な正義の基準は、自分で考えても、わからなかった。しかし、誰かの行動については、個々の目的に照らすことで、正しいか否かを具体的に判断することはできる、という糸口を掴んだ。例えば、友人を見捨てることは、法律的には不正とは限らないが、道徳的には、おおむね正しくない。何を目的に置くか(法秩序か倫理か)で、同じ行動も、正不正が異なるのだ。

しかし、それで正義についての議論が尽きたわけではない。個々の行動の正不正を論じたとして、その議論の根底で働いている、正という概念の正体は、まだ掴めていない。概念としての正義は、きっとあるのだが、我々は、未だ知り得ていないのではないか。いわば、普遍的な正義の定義、あるいはその条件の究明が、現下の問題意識である。 

また、私が、探求したいと言った「善」は、ただ単に古色蒼然とした因習道徳の掲げるご印籠ではない。「善」とは、人間に幸福をもたらすものの、漠然とした総称である。世の中のあらゆる存在には目的がある。個々の存在が、その目的に叶うあり方をとることが、「よいこと」だ。そういう単純素朴な意味の、英語で言えば、Goodnessである。こういう「善」を、私は、普遍的な意味の正義と、ほとんど同じような意味合いで捉えた。

その辺まで考えていて、たまたま読んだのが、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房、2011年)である。その中で、アリストテレスが考えた、二つの正義の観念が紹介されていた。そのうちの一つが目を引いた。

「1 正義は目的にかかわる。正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因(目的、最終目標、本質)」を知らなければならない。」(前掲書、P.241)

まさに、私が、正義について考えたことの、先駆的要約がこれである。驚いた。それで、アリストテレスを、きちんと読まねばならない、と思い立ったが、ほとんど読まずに、今に至っている。アリストテレスの著作群の中でも、特に『ニコマコス倫理学』が目玉のようだ。そうこうしているうちに、村上春樹の小説『1Q84 BOOK1』を読んでいると、アリストテレスの見解として、意味深いことが語られているのを見つけた。 

引用始め>>

「『あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてまたあらゆる行動と探索は、何らかの善を目指していると考えられる。それ故に、ものごとが目指しているものから、善なるものを正しく規定できる』」

「なんですかそれは?」

アリストテレスだよ。『ニーコマコス倫理学』だ。(後略)」

>>引用終わり

村上春樹1Q84 BOOK1』新潮社、2009年、P.307) 

そうなのだ。あらゆる行動は、何らかの善を目指しているのだ。しかし、重要な気づきは、それだけではなかった。

「それ故に、ものごとが目指しているものから、善なるものを正しく規定できる」

???これはとても重要なことを言っているように思えた。よく考えながら読むと、先ほど引用した、サンデル教授がまとめた正義の観念の箇所と、同じことを言っている。再度引用する。 

「正しさを定義するには、問題となる社会的営みの「目的因(目的、最終目標、本質)」を知らなければならない」 

これが、アリストテレス本人が本当に言ったことなら、アリストテレスは、ここで、善を探求する道筋を考えていたことになる。この箇所の、前後が知りたくなった。だから、『ニコマコス倫理学』を読まねばならない。 

私が今いる、地点は、ここである。

 

 

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