課題の教科書

Critical Realism for All Leader

『大江健三郎柄谷行人全対話』を契機に|思考と現実の矛盾について

柄谷行人(1941−)は語る。「僕にとって、批評とは、思考する事と存在することの乖離そのものを見ることでした。」(「戦後の文学の認識と方法」『大江健三郎柄谷行人全対話』所収、講談社、2018年、P.71)思うに、思考と現実が矛盾することならば、しばしばある。例を挙げよう。

人間に意志の自由はない。なぜなら、人間のする行為で自然の必然に支配されないことはないからだ。しかし、こういう問いが湧いてこないか。だったら、何をしたって自由ではないか!?

自由の否定から始まって、現実に存する自由を肯定して終わることになる。思考と現実の矛盾は、明らかに深刻だ。この問題を考えずにはいられなくなる。 

こう言う人がいるだろう。最初に否定された自由は、物理的な制約を受けない自由であり、最後に宣言された自由は、意思決定の自由だから、そこには見方のズレがある。しかし、問いを呈する人を、そう言って、なだめすかしても、問題の解決にはならない。こういう大人びた説明は、矛盾など存在してほしくないという願望のお仕着せである。堂々と矛盾を引き受ける人の生き方を台無しにしないでほしいのだ。最後に、「何をしたって自由ではないか!?」と叫ぶ自由は、ありのままの現実を最高度に活用しようとする、たくましい人間に起き得る、練度の高い意志の発露だ。

もう一つ例を挙げよう。 

世界は存在する。全ての存在には始まりがある。だから世界には始まりがある。始まりには以前がある。以前には時間が流れていた。時間があったなら世界もあったに違いない。時間だけが流れる世界に、世界が存在しないのはおかしいからだ。だから、世界が始まる以前に世界が存在したとすると、先ほど取り上げた世界の始まりは、始まりではなかったことになる。始まりがないなら、その始まりを始点とする世界は存在しない。では、本当の始まりはどこにある?矛盾は解消しないまま、無限に背進する。 

世界の存在から始まって、その世界は存在しないと結論することになる。しかし、こういう問いが出てくる。「ならば、世界はどこに存在しないのか!?」世界が存在しないと言うには、何らかの場所に現に世界がないことを見つけねばならない。しかし、現に世界がないのを見つけたとしても、世界が存在しない「何らかの場所」は、それも何かの世界ではないのか。するとやはり、世界は存在するのか。思考は窒息し横死してしまった。屍となった思考の側に、時の流れる世界だけが、現実に在る。 

この手の矛盾が呼び起こす驚きは恐怖と隣り合わせである。なぜなら、言葉に忠実であることが、矛盾をもたらしていることに、人間として身の震えを感じるからだ。しかし、勇者よ、この問題を生きる糧に変えてみよ。思考と現実が矛盾しても、現実に今、こうして生きているではないか。思考と現実が矛盾したら、現実を取れ。思考と現実が矛盾する最悪の事態においても、お前は胸の鼓動を打っているではないか。この楽天主義に立つのが、現実主義ではないのか。問題を前に渋面して沈思黙考するのは哲学者だ。奮い立って生きる者は、何者かに成ろうとする名もなき者だ。名もなき者は哲学者を名乗りはしないだろう。しかし、この深刻な問いを生き生きと楽しんでいる。言葉を積み上げる途中でぶった切られ、ピクついている思考の切れ端をつまみ上げながら、太陽に透かし見て、微笑みながら言ったらよかろう。この世は実に面白い。

スポンサーリンク