課題の教科書

Critical Realism for All Leader

村上春樹の文体について|作品を通した批評|『1Q84 BOOK1』ネタバレなし

死なない作家は未完成である。作家は書くことで、異界へ赴き、なかったことをあったことのように語り、自由自在に変身する。作家は、読む者に正体を掴ませないように、所定まることを得ない。作家の揺らめく正体は、死ぬ直前に筆を擱くまで、姿を見せない。作家を評価する上での基底となる作品群の全体像は、死ぬまで明らかにならない。作家は死んで、再び生まれ出ずる。

存命の作家である、村上春樹を問う批評は差し控えた方がよい。そう思いつつ、個々の作品を批評することは許されるだろう。そう思って、ペンを執った。過去の作品だが、『1Q84』を読んでいる。まだBOOK1だ。全部は読んでいない。読んでいる途中の感想でいうと、この作品に表れる、作者の読み手に対する感度の高さは、作家としての矜持なのか、ビジネスセンスなのか、にわかには判別できない。そうだ、人の批評はやめておこう。

1Q84』を読んでいると、書き手が、読み手の頭上に、こっそりと仕掛けたであろう枠組みは見えない。しかし、適当なタイミングで起きる出来事は、きっと起こるべくして起きていると思わせる力を備えている。一つひとつの出来事は、ある意図を持って、しかし自然に、とつとつと進行する。 

読者の脳裏には、いつの間にか、問いがまとわりつく。事実としての端的な描写を、目でなぞるように読む。全てが、自然であり、何か世界の奥に意志が潜んでいて、そこから流れ出た脈絡が、現実に形を帯び、物語となって展開していく。その過程で、読者の心は、一定の方向性と質感を備えた、問いにとらわれる。この問いが、リアリズムを超えた物語に、強い現実感を感じさせる。 

芸術作品は、鑑賞者に問いを抱かせる。私はそう思う。しかし、鑑賞者の問いは、作品自体への問いであるとは限らない。そのことを、『1Q84』を読んで気付かされた。芸術作品が喚起する問いは、世界そのものへの問いでなければならない。あるいは、世界そのものへの問いを疑似体験させるものだ。

1Q84』という作品の中では、所々、現実には起こり得ないことが起きる。それが現実にはあり得ないことを、主人公たちは知っている。しかし、この奇妙な設定が、安っぽい道具立てに終わらないのはなぜか。読みながら、読者は、我々の現実に起きていることも、同じではないが、十分問うに値するほど、新鮮な驚きに満ちている、とうっすらと覚るからではないか。 

1Q84』を読み始めた頃、思わず引き込まれるような話は、どこにもなかった。それでも、なぜか手にとって続きを読みたくなる。一つひとつの章の適切な長さや、並行する物語を、章立ての上で交互に配置することが、読んでいて飽きさせない工夫なのだろうと、勘ぐったりもした。作家としての技量にビジネスセンスを感じたからだ。しかし、そんな小手先のテクニックで読まされるほど、こちらは暇ではない。何か違う理由があるはずだ。 

読んでいると、まるで自分の生活を読んでいる気がする。到底ありそうもないことを書いた奇抜な小説は、私だったら、読む気をなくして、放り投げてしまう。この作品の、読ませる力は、徹底したリアリズムである。これまでの日常のどこかで、目撃したこと、聞いたことが、そのまま書いてある気がするのである。

1Q84』を読ませる力、リアリズムはどこから生まれるのか。きっと、それは複層的な構造の中で、綺麗な点を結んで、浮かび上がる星座のように稠密なシステムに違いない。だから、一言で言い切れる自信はない。しかし、一点だけ挙げるなら、この鍛え抜いた文体である。やや短く、余計な修飾語句を削ぎ落とし、一文につき一点の焦点しか結ばない、作家の意思の塊のような文体である。非ネイティブが、定かな文法知識と、中級程度の語彙力で、的確にコミュニケーションをとるために、賢く話す英語を聞いているようだ。言うべきことしか言わない、という話者の確たる信念が成せる技だろう。余念がないのである。見せよう、聞かせよう、読ませよう、という余念の乏しさが、読む者に爽快感を与え、この物語のリアリズムを根底で支えているように思う。読む方が、複雑で面倒な問いにかられずに済む、すっきりとした文体で物語が構築されているのだ。すんなりと、整った問いを大事にしながら、読むことができる。問いを自分のものにする時、現実はやってくる。

しかし、それでは説明しきれない。作品を問うことの愚かしさを、感じずにはいられない。世界を問わねばなるまい。作家を問うことも、作品を問うことも、禁じられ、世界そのものを問うこと。それが今現在許される、最も正しい村上作品の鑑賞態度である。

問いを自分のものにする時、現実はやってくる。この命題は重要だ。だから、ちゃんと書かなければならないと思った。 

問いは何に向けるのか。人。作品。自分。そして、世界。人に向けたら対話になる。作品に向けたら批評が始まるかもしれない。自分に向けたら何が始まるのか?世界に向けたら....。 

それは試すしかないものだ。試さなければわかるまい。では、世界に問いかけようとする私は、どこにいるのか。私は、捉えどころのない茫漠とした世界を前にして、一人で何ももたず、立ち尽くす。胸中に抱くのは、不安だろうか。そうだ、確かに不安だろう。しかし、それは未知なる荒れ野に踏み入って、秘宝を見つけに行く、胸の高鳴りに、かき消えてしまうものだ。何という自由。何という可能性。何という未知の輝き。扉は開け放たれた。世界が腹蔵するあらゆる秘宝が、惜しげもなく明け渡されようとしている。

未知の世界は、もはや未知の世界ではない。それでいて、世界はあまりにも未知だ。何という矛盾。矛盾に引き裂かれる喜びは、この世の皮相で起きることではない。このことを、はっきりと言葉にすることが、私の衝動なのだ。これが美的な心酔だろうか。哲学の原初的な動機だろうか。否、これを現実と呼ぼう。私は現実を語ろう。それを詩というも愚か。私は私になるのだ。 

この世の、あらゆる隙間。言い古された習慣の中で、家具の間に挟まったまま、忘れ去られた言葉の種。床下に吹き溜まった土ぼこり。どれもこれも都合よく掃き清めた、偽りの従者達め。さも、この人生の主人になりおおせたつもりが、たぶかられ、現実に目を塞がれた身の上だったとは。世界を問え。問いの言葉は、全てを宿すだろう。問いは世界に匹敵するのだ。 

答えは数え上げればくだらない。問いの数ならごまんとある。人間は問いの無尽蔵だ。この救い。このチャンスを。よもや見失うまい。奪われまい。自由。それは与えられない。勝ち取らない。すでにある。探すも愚かな。右手を挙げて振るだけだ。自由! 

世界を問え。問いの中に入れ。現実になれ。言葉に不自由などするまい。自在に言葉を操るがいい。融通無碍な知恵者にもなれ。何とでもなれ。さあ、飛躍の時だ。 

立ち上がるな。ただ前を向け。掲げた右腕は雲をも掴む。天をも貫く。星々を束ねてみせる。現実からは離れもしない。破約なき契りよ。私は手に入れた。美も真も、幸福も。夜は饒舌だ。月は陶酔した。この世の限り。いついつまでも。願いはそれだけ。

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