課題の教科書

Critical Realism for All Leader

熊谷守一の『轢死』|子どもに先立たれた画家の願い|映画作品にもなった生涯

熊谷守一(1880−1977)は、明治から昭和に生きた画家。最終的に確立した画風は、貼り絵のように簡素な意匠で、ユーモラスな生命のよろこびを表現する。独特の個性的な表現で、自然の事物を描き出した作品は、見る者に自然な愛らしさを感じさせる。

映画作品の主人公ともなった熊谷守一の作品は、長い人生の中で変遷をもつが、晩年に向けて確立していった画風は、とことん理詰めで対象を抽象化し、本質を際立たせようとしている。しかし、この老画家の極めたかったのは、対象の表現だっただろうか。あまりに簡素化されたその絵を見るとき、対象の大部分が捨象されても、その存在を判別する視覚とは何なのか、という予備的な疑問が、鑑賞者の脳裏に浮かぶ。熊谷守一は、視覚という働きが、何なのかを、絵画を実験台として理解し、その本質を、絵画を手段として表現したかったのではないか。 

列車の人身事故の現場に居合わせた経験をもとに、描き上げた『轢死』(れきし)は、暗い画面を死のモチーフで満たしている。熊谷は、横たわる遺体を縦にすれば、生きているかのようだと感じ、視覚の効果についての関心を示した。熊谷は、絵を描きながら、貧困の中で家族を養い、五人の子をもうけた。しかし、三人の子が早くに先立った。一九二八年に四歳で亡くなった次男、陽の死顔を描きかけて、嫌になって途中でやめている。一九三二年には、三女、茜が死去する。一九四七年に二十一歳で亡くなった長女、萬の病臥する様子も絵にしたが、横に寝ているはずの萬が、縦に描かれている。 

熊谷は、視覚の効果によって、長女の生命力が回復することを、祈っていたのだろうか。熊谷が、辛い人生の中で、画業に打ち込んだ動機は、視覚的効果が、人間を再生し、幸福をもたらす、という、儚い願いではなかっただろうか。熊谷は、ときには、西洋画の手法に学びつつ、独自に色彩研究に取り組み、極めて完成度の高い個性的な画風を確立した。その画風が形を帯び始めるのは、一九四〇年前後からである。熊谷は、幸福のありかを、科学的な画法に求めたのなら、それはなぜだろうか。 

熊谷は、人間も描いたが、山川草木、自然の動物など、あらゆる生命を画題とし、一個一個の色形に、生命の鮮やかな躍動を表現している。画業が貧困を生み、不幸を画業が埋め合わせる。死と生とのはざまにあり、避けがたくもある運命の中で、矛盾を背負った画家の心中には、画業にかけるどのような動機が満ちていただろうか。

熊谷守一は、九十七年の人生を全うし、晩年は「いつまでも生きていたい」と口にした。熊谷は、自らの画業において死せる者を弔うには、生き続けるほかなかっただろう。なおかつ、生きるには画業をもってするしかなかっただろう。この老画家は、何をもって自身を弔うことを望んだであろうか。

スポンサーリンク