課題の教科書

Critical Realism for All Leader

松尾芭蕉|芸術家のロールモデルの何を模倣するか|代表作

松尾芭蕉(1644−1694)。江戸時代の俳諧師。独自の俳諧を追求し、求道者のような漂泊の旅路において、数々の名句を残した。俳句と言えば、よく芭蕉を思い起こす。句作しようとして、芭蕉の模倣を試み、挫折した人もいるかもしれない。

文芸に限らず、芸術を志すと、ロールモデルをもちたくなる。ロールモデルの何を真似するかは、芸術家としての成否を分ける大きな分水嶺ではなかろうか。敬愛する芸術家の作品を真似たら、何も残らない。見習うべきは芸術家の精神ではないか。 

芭蕉の名句は、一見シンプルで、意匠を踏まえて類句を連想すれば、いくらでも模倣できそうに思ってしまう。しかし、なかなかそうはいかない。芭蕉の代表作の多くは、歴然たる自然の模倣によって成立している。 

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 五月雨をあつめて早し最上川

 この道や行く人なしに秋の暮

 荒海や佐渡に横たふ天の河

 (今栄蔵校注『芭蕉句集』新潮日本古典集成、新潮社、2006年) 

模倣すべきは、芭蕉の句作における姿勢であろう。芭蕉は、当時流行した、商売のための俳諧や、自分の評判を高めるための俳諧を否定した。独自の境涯を求め、日本各地を行脚し、病を得ながら、俳諧に人生を捧げた。当時の旅は命がけであった。それでも追求しなくてはならない動機の問題は、単なる作品の模倣で、こと済むことではないだろう。 

芸術は、一般的に言えば、表現の追求である。表現行為には勇気が要る。自分の見たこと感じたことを正直に表すことに、少しもためらいを感じない人はほぼいないだろう。しかし、躊躇すれば筆は鈍る。文芸は書きたいことを書くのが基本である。 

書きたいことを書くのが、文芸の基本であるなら、よほど自分の個としての品性を高く保たなければ、安っぽくて目も当てられない代物を表現することになる。芸術家にとって、品性の確保は、極めて重要だ。しかし、それは、世間の評判を気にして自分の個性を高めるのとは、違う。 

優れた芸術作品を並べてみれば、どれも、個性の表現に成功している。その成功を支えているのは、紛れもなく技巧である。しかし、技巧の優劣は、職人が競い合うことであり、芸術家にとっては二義的な問題だ。芸術家にとって、技巧は必要だが、それでは十分でない。技巧を見せびらかすことは、芸術の目的ではない。技巧的に個性が表れ出るのは、表現追求の結果であって、それが目的なのではない。 

では、表現の追求が芸術の命題だとして、表現すべき対象は何なのだろうか。これは、芸術は美の表現だ、と批評的に言えば済むほど、簡単な問題ではない。仮にそう言う時、表現対象(美)を、その批評的短文(芸術は美の表現だ)の中で、どう表現しえたのか。この批評的な短文は、肝心なことを、何も表現できていないのだ。芸術の表現対象は、無限に続く自己対象化の輪廻の中で、言い尽くせない。しかし、この批評的短文は芸術ではない。だから、そのことを責めても仕方がないだろう。しかし、芸術家は、その独自の表現行為の中で、言い尽くせぬ何かを表現し続けるしかないという諦観を持つ人だ。その何かは、示し得ない。ただ、芸術を我が道として追求する者の背負う何かが、そこになければならない。

 

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 (前掲書)

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