課題の教科書

Critical Realism for All Leader

批評の方向性|居心地が悪くなる文章|クリティカル・リアリズムにおける課題批評

私は、まだ書きたい批評を書けずにいる。書き手の頭のデキの良し悪しを表現しようとする批評は書きたくない。読者が勉強になりました、というだけの批評も書きたくない。読んだら動かずにいられない批評を書きたい。批評を書く上で、重要なのは、読者を釘付けにする問いを立てることであると思う。これが、なかなかできずに困っている。

単にわからないことを調べ、わかったことを読者に報告するだけなら、論文と変わりない。批評を書く以上は、批評とは何なのかをはっきりと弁えていないといけない。批評の定義は、世の中の見解を探ってみても、よくわからない。批評の定義は、人の数だけあるだろう、という指摘もある。であるなら、私は、批評を書くなら、読み手に決定的な問いを提起し、読みおわった後も、読者がその問いを引き継いで、考え続ける、そういうものを書きたい。 

観念的な言葉の羅列で文章を飾るのではなく、書き手とともに読者が現実に回帰しなければならない。独創的な思考を展開するとか、画期的なことを言うとか、そういうことには余り興味がない。読みながら、読者が居心地が悪くなる批評を書きたい。今の自分のあり方に決定的な疑問をもつ態度を醸成したいのである。クリティカル・リアリズムとして標榜する批評のあり方は、そこにある。 

だから、わからないことをとことん突き詰めたいという思いがある。本を読んで調べると、所々抜粋しながら、思わず、わかったことについてだけ、コメントを並べている自分がいる。これでは、いけない。読んで何がわからなかったか、問題がどう深まったのか、これを問わなければならない。人間は無知なのだから、現実に回帰するという意味は、人間の無知をあからさまにすること以外にないだろう。それは、きっと、よほどドラマチックで面白いことのはずに違いないのだ。 

自分は何をわかっていないのか。知の裏側、空隙、非存在、表には見えてこない所に触手をのばすことが必要だ。そして、今はわかっていないことを、わかることによって、どんな新たな世界が開けてくるのかを、あらかじめわかっていなければならない。それが知恵であり、哲学とは本来そういうものだろう。その意味では、私の書きたい批評というのは、半分くらい哲学と同じなのかもしれない。 

わからないことの層の深みを究明したい。それをどこから始めればよいのかが、わからないまま、とりあえずの文章を日々記事として投稿している。おそらく、読者は、そういう書き手の中途半端な状況にお気づきだろう。知ったことを書くだけでは、ダメなのだ。わかることは限られている。わからないことは無尽蔵にある。豊かな書き手となるには、無知を弁える態度がどうしても必要である。クリティカル・リアリズムと言っているのも、根っこにはそういう考えがある。おそらく、もう一段、テーマを絞り込み、構えを持った上で、このことを考え続ける必要がありそうだ。そして、決定的な問いは、批評対象の課題を出す過程で、生まれるに違いないと思う。

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