課題の教科書

Critical Realism for All Leader

生活雑感|三十而立、四十而不惑、五十而知天命|後ろを振り返ることの効果

三十歳を過ぎて生き方を見つけられない人はいないだろう。十代後半から二十代前半にかけて熱中したことが、その人の答えだ。人生の枠組みは、そこで確定する。最近、なぜかそういう考え方をするようになった。確たる根拠はないのだが、そう思いたいだけかもしれない。

それで天職が決まるとか、生涯年収が決まるとか、言っているのではない。その人の生き方が決まる、と言っているのは、人生の通奏低音が決まる、と言う意味である。その生涯において、どんなことを渇望し、何に悩み、何が桎梏になるかは、青春時代の自分が決める。 

時々するべきことを忘れて放ったらかしにすることがある。これもたんに忘れたのではないだろうと思う。要はやる気がなかったのだ。健忘とは、やらない意思表明と言う気がする。実際忘れたことを思い出してから、よく考え直すと、確たる、やる意味が見つからないことは、よくある。やる意味があっても忘れてしまうなら、体力の保持は健忘症対策に必須だろう。体はよく動かした方がよい。 

身に起きる何事も、自己決定の結果なのだ、と思い定めると、案外と気分がよい。失敗したと言って悔しがるのは、若者の特権かもしれないが、あまり気分のいいものではない。失敗は自分が意思決定した結果であり、半ば自分が好んで招来したようなものだ、と開き直ると、程よい責任感で出来事に対処できる。それでも、失敗続きに陥ると、さすがに落胆するかもしれないが、やりたくないことを、ずっとやろうとしているから、内心嫌がって失敗しているのかもしれない。だったら、最初からそういうことはやらない、と意思決定するのに、心理的障壁はあまり感じない。 

いい歳になると言うのは、運命は自分が決めているのだから、ジタバタしない、そういう開き直りをもつことではないか。何度も言いたくなるのだが、そう開き直ると、程よい責任感と緊張感をもてる。何事も、案外自分の決めたことなら、後悔も起きない。そう書きながら、きっと今も私は、自分の運命を決めているのだろう。 

いつも自分の決めた道を歩いてきた。そう思うと、肩の荷が降りた気がする。誰かに命ぜられた道を歩いたのではない。若者は、これからは自分の道を行こうと決心し、未来をよいものにしようとし、将来を思い描く。いい歳になると、後ろの人生を振り返って、これまでの成果の出来不出来はともかく、これまでも自分の決めた道を歩いてきた、と思って納得し、その後の人生に向き直る。 

十五にして学を志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。歳をとると思わず口にする論語の一節は、しかし、年齢を経るごとに、ちょっとずつ意味がずれて聞こえるのは、私だけだろうか。私の場合、天命を知るために、ちょっとずつ学問をし、次第に立脚点を見つけ、わずかずつ自信を深めてきた。この一節の時間的経過は、知命に至る熟度を表す濃淡だが、どの区切りの年齢を過ぎてからも、後から過去の区切りの年齢における熟度に関して、感慨が増す。そう思うと、これからも後ろを振り返りながら行く道は、はるか遠い処へつながっているような気がする。

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