課題の教科書

Critical Realism for All Leader

自然と人間への関心|リスク過剰な存在を巡る批評と芸術の関係

住んでいる処には、よく鳥が飛来する。名前は知らない鳥が、いつも決まったように数種、その辺に陣取る。晴れた日は、機嫌のよい鳴き方をする。雲行きが怪しくなると、甲高い声をしながら、飛び回る。雨ともなれば、羽が濡れないように行き場所を確保しなければならない。仲間に警戒を促しているのかもしれない。天敵の攻撃をかわすための最良の手段が、台無しにならないように、知恵を絞っているのだろう。

長い都市生活に慣れ、天気予報もろくに見ずに、折り畳み傘をいつも鞄に入れていれば十分だ、と何の用心もしていなかった時期がある。自然災害のニュースを見ると、そういう不用心が当たり前になった自分は、身の安全を図ることに無自覚ではいけない、と思った。これも一つのリアリズムの欠如だ。 

ずっと私は、一番怖いのは人間だと思ってきた。それも一つのリアリズムだ。自然愛も人間愛も、もっとも畏怖すべき中心的存在に「愛」という言葉をくっ付けるところに、若干の違和感がある。この二つの愛が本当に実現したら、世の中に怖いものなどないに違いない。それが、どういうリアリズムになり得るのかは、学校の先生にも教わったことがない。 

実際、近くに身を寄せて、飛んだり跳ねたりする鳥を観察すると、遠目には穏やかだが、鋭いくちばしに険しい目をした野性の動物そのものである。恐ろしい病原菌だってもっているかもしれない。自然愛が、可愛らしいという理想化から来るロマン主義なのであれば、あまり長続きしそうにない。まして、人間においてをや、である。 

自然と人間が恐ろしいのは、予測不可能な存在だからである。自然と人間は、リスク過剰な存在の代名詞みたいなものである。人間の理性も捉えきれない存在を、人間につなぎとめようとするのが愛なのか。愛とは諦めないこと。辛抱強さのこと。それは、わざわざレリーフで飾って、展示するものではないと思う。 

しかしながら、批評は人物に重きを置き、人物への関心の枠内に、肯定感をなみなみと満たす営みだろう。リスク過剰な存在は、格好の批評対象である。人間は汲んでも汲んでも汲み尽くせない。人物は非難したら、それで終わりだが、肯定したらさらに続きを書きたくなる。肯定感は批評家の生命線である。

ともあれ、批評は自然を相手にできそうにない。自然を愛するのは、芸術家の態度である。しかし、芸術家の態度を愛するのも批評家の仕事である。

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