課題の教科書

Critical Realism for All Leader

わからないということの根拠|知識・知力・無知|好奇心のわく理由

先頃、わからないということの根拠を明らかにしたい、と述べた。では、わかっているということの根拠は明らかなのだろうか。実は、必ずしもそうではないらしい。

例えば、三平方の定理は正しい。みんな知っている。その根拠も、数学の教科書を開けば書いてあるし、みんな知っている。三平方の定理が正しいと言える根拠は明らかだ。しかし、誰か、例えば、Aさんが、三平方の定理をわかっている、とどうして言えるだろうか。Aさんは、三平方の定理の根拠を知っているから、わかっていると言うかもしれない。しかし、本当だろうか。Aさんに質問したら、三平方の定理の根拠を、すらすらと言ってくれた。わかっているかもしれない。しかし、本当の意味を知らずに、記憶力抜群で、教科書の内容の記憶を復唱しただけかもしれない。わかっていると言う根拠は、実はないのではないか。 

もし、誰かが知識(例えば、三平方の定理)とその根拠が、言えても、わかっているという証明ができないとすると、我々は、随分曖昧な認識のもとで、暮らしていることになる。他人に対して、根拠付きの知識を説明することで、その知識が正しいことの承認だけは得られる。しかし、自分が本当にわかっているという承認は、実は得られない。知を明らかにし、知識を増やす、ということと、自分の知力の対外的証明とは、若干ずれている。自分の知力(三平方の定理をわかっているということ)は証明できないが、客観的に知識(三平方の定理)が正しいという証明だけはできる可能性がある。 

実際、人間は、知力の証明は諦め、知識の証明に尽力している。自分の知力は、わかっているという内面の問題であり、他人は、厳密には、それを確かめられない。しかし、知識は、その可否を、めいめい自分の中で確かめることができる。お互いに、他人の内面はわからないが、自分の中のことはわかっているから、とりあえず、そういうことにしておけばよい。つまり知識の探求だけを課題にしておいて、よいのではないか。本当にわかっているかいないかは、他人に対して証明などしようとせず、自分がわかっていればよい。各自がそう思っていればよい。そういう、一種の中途半端なバランスみたいなものが成り立っている。 

では、人が、通常、わからないということ(無知状態)の根拠を追求しないのは、なぜか。無知状態にいることの根拠を、他人に対して証明する必要性がないからだ。他人は、知識の証明は求めるが、無知状態にいることの証明は、求めない。他人との関係だけで言えば、そういうところで要否が定まる。しかし、それは、あくまで他人との関係だけで言う場合である。 

自分の知的好奇心で言えば、自分はなぜわかっていると言えるのか、あるいは、なぜわかっていないと言えるのか、その根拠を探求したくなっても、おかしくはない。果たして、そういう自分の知力に関する自己認識の確立について、学問的方法論は、これまで議論してきたのだろうか。なんでわかるのか?なんでわからないのか?そういうことは、他人からは問われない、と言ったが、全くそうとは言い切れない。関心を持てば問う他人もいるだろう。しかし、その回答の成否は、他人にはわからないだろう、という壁にぶち当たる。だから、他人が問うても意味がない、ということになる。 

自分はなんでわかるのか?なんでわからないのか?こういう問いは、他人とは共有できない、閉じた世界にしか成り立たない。おそらく、だから、あまり世の中では相手にされてこなかった問いの立て方なのかもしれない。それだけに、若干の好奇心を感じなくはない。

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