課題の教科書

Critical Realism for All Leader

追い続けたいテーマ|わからないということとは何か|わからないと言える根拠の探索

これから、やりたいこと。それは、わからないことを組み立てること。あるいは掘り下げて行くこと。それは、何かわからないことを、わかりたいのではない。わからないこと、ではなく、わからないということが何なのか、をわかりたい。

文章を書く時は、得てして、わかったことを書こうとする。こんなにすごいことがわかりました。誇らしげだ。書ければ、かっこういいかもしれない。しかし、わかる時の実感は、ありふれている。誰でも勉強すれば、わかったという感覚をもつことができる。しかし、わからない時の実感が、何を掴んでいるから持てる感覚なのか、それがわからない。思うに、きっと、何かをわからない時は、確かにわからないということが何なのかを、わかっているに違いない。わかっているが、表現になる言葉として、浮き出ていないだけだ。それで思わず、わからない、と口走る。わからない、という時の、わからないと言い切れる根拠は何なのだ。要は、そういう疑問に答えたい。 

わからない時に、わからないと言い切れる根拠が言えなかったら、実は、わかっているのかもしれない。あるいは、もし、わからない根拠が言えたら、それはそれで、すごいことではないか。何かをわかっていなければ、わからない根拠なんて言えるわけがない。そこに、人間の知の深層があるのではないかと思う。 

わからないことの、深層を掘り下げていって、それがどんな層で成り立っているのかを、わかりたい。そこに、人間のダイナミックで、生々しい知の脈動を探り当てたい。こんなことは、普通やろうとしないかもしれない。例えば、これから、博士論文を書こうとする人が、わからないということを、もっと掘り下げよう、とはしないだろう。その人は、きっと研究分野の中で活動していて、特定のテーマを決めて、新しい示唆なり発見を書き込もうとするはずだ。 

あえて、テーマに特化せず、人間の知を問いたい。それは言うなれば、人間の知がテーマだ、ということになる。しかし、知をそのまま問うわけではない。逆に、わからない、ということが、何なのか。これを知りたい。なぜ、わからない、と言い切れるのか。妙なことを言うようだが、考えてみれば、それはとても不思議なことだ。わかった時の根拠は、みんなで取り上げたり、批判したりするのに、わからないことの根拠は問おうとしない。 

例えば、何かを知ろうとする時に、アプローチを立てる。アプローチは、わかっていないということの、ありのままの現実、あるいは内部構造を明確に弁えていないと、立てられないはずだ。そういう経験上の直観みたいなものを、薄々思い浮かべて言っている。 

そういう、一本のテーマを、今後他と並行しながら、長い時間の中で追い続けたいと思う。

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