課題の教科書

Critical Realism for All Leader

身近な存在の神秘|哲学と詩|思わぬ遭遇を活かそうとする動機

世界がどう存在しているか、は神秘ではない。世界が存在することが、神秘なのだ。そう誰かが言っていたと思う。

世界が存在する。随分と大きなことを言っている。大きなことが神秘的なのだろうか。そうではない。身近にあるものが神秘だ、ということが、神秘を実感する時の実感内容である。身近なものとしての存在。これを自覚するところから、哲学は始まるのだろう。

神秘にただ浸っているのは、何か特異な個人的経験であって、哲学ではない。神秘の中には、言い知れぬ本質がある。それを実感し浸っているだけの境地から脱して、本質の輪郭を言葉でなぞることが、哲学の始まりだろう。身近な存在が秘める神秘、これほど好奇心をそそられることは、あるまい。思わぬところで遭遇した幸運を活かしきろう、というポジティブな動機が、哲学の営みには、はたらいている。 

本質の表現、は言葉として、いろいろな形をとる。哲学は、論理という形をとる。詩人は、詩という形態をとる。詩も一つの身近な存在の表現だ。古代ギリシアでは、詩人は、単なる芸術家というより、真理を語る人として敬意をもたれていたという。近代に至っても、デカルトは、詩を愛好したという。 

哲学が詩に劣るとしたら、その現実感だ。実存主義、という思潮は、哲学者の背伸びではなかったか。そもそも、哲学は、本当に論理的だったろうか。その実、詩的な言語表現を密輸していなかっただろうか。論理が本質の表現だとしたら、その表現行為は詩作と何が違うだろうか。哲学書が難解として知られるのは、論理と詩との間で、言葉の素振りを、中途半端に兼ねていたからではないか。画期を成した哲学者の提示した、言葉は、どこか詩情を偽装している。 

哲学が、詩情を湛えても、表現しきれないことがある。好奇心そのものだ。詩作品に、本当の動機それ自体を明示できる詩人は、いないと思う。好奇心は、詩人その人、あるいは読む人その人の中にしかない。作品は両者をつなぐ媒体である。哲学の成就した姿があるとしたら、生きることだ。身近な神秘に出くわした、たぐいまれな幸運を自覚して、それを活かしきろうとする人間の立ち姿だ。哲学書に書き込まれなかった、真の願いはそれだろう。哲学も詩も、本願成就についての方法の違いに過ぎない。 

本質であり、表現されざる、言い知れぬもの。詩も哲学も、それを中途半端に匂わせるだけだ。好奇心を言い尽くすことはできない。神秘は倍加し、人間の魂は満ちていく。言葉にした先から、増殖し、野に放たれる好奇心。行くものを指して、言うこともできない。表現者は、増殖しながら自分の元を去りゆく動機に、復讐されるのだ。

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