課題の教科書

Critical Realism for All Leader

西洋における個の問題処理|キリスト教社会|真のリアリズムの判定が現代日本の課題

西洋キリスト教社会において、愛こそ目的、ではなかろう。

西洋における近代が生んだ個は、キリスト教とどう向き合ったか。個の実存は、超越的な神との対比において、居場所を定める。己(おのれ)は、絶対的な他者である神との関係性において、自己の存在に当為を見い出す。西洋キリスト教社会は、合理主義哲学が生んだ自我を、解体しようとせず、そのまま尊重し、いつくしみ育てた。 

キリスト教の唱える、自己犠牲の原則は、自我の存在が前提になければ、当為としての玉条とはならなかっただろう。自己は他者を鏡とし、他者に自己を映しこむ。自己と他者は、生活を営む上で認識にはめられた枠の中で、等置される。このような生活の枠の中では、自己犠牲の原則と利己主義との摩擦は、論理的に避けられない対立である。この対立によって引き起こされる緊張を、やわらげるための鎮静剤は、哲学ではなく、愛であった。愛においては、自己と他者は等価であり、交換可能となる。 

西洋キリスト教社会において、神は、人間を救うため、我が子をこの世に送り込み、人間の手で十字架にあげさせたとされる。神は愛そのものである、と言って民衆を教導した、この神的存在は、人間の罪を贖う手段となるまで、降りていったのである。受肉によって愛は救済の手段となった。 

西洋キリスト教社会は、そのことを現実に起きた物語として、痛切な実感をこめて信じようとする。信じるものは救われる、つまり、問題は解決されるというのだ。西洋近代の自我が引き起こす問題を乗り越えるために、生活の場ではたらいているのは、そういう一種のリアリズムとしての宗教である。我々、日本人も、諸問題を、単なる理論としてではなく、生活において、一人ひとりの生きる物語において、生々しい手応えとともに解決しなければならない。 

我々、日本人を苦しめる問題を解決するのは、哲学であろうか、宗教であろうか、科学であろうか、経済であろうか。窮状にある自分を、どれに助けてほしいか、という願望は無意味だ。何こそが絶対だと標榜する理想主義も必要ない。真に問われなければならないのは、何が最も人間の窮状を救うリアリズムを打ち立てるか、という実力判定を行う場の設定だろう。

現代日本のリアリズムの主座を巡って、あらゆる立場、勢力、集団が競い合うゲームは、混沌とし、無秩序ですらある。リアリズムを競い合う競技場からは、今日もあまたの選手が弾き出され、危険な技を振り乱し、我々の生活圏の中で猛威を振るっている。言論は、本来、ゲームを競技場の中に押しとどめておくための、安全装置である。今の日本の言論は、リアリズムの実力判定を、安全な場で行う役割を果たしているだろうか。 

コロッセオは開け放たれた、言論の力よ、振り絞れ。

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