課題の教科書

Critical Realism for All Leader

リアリズム判定の方法|批評家の役割|人物本位の批評のあり方

真のリアリズムの実力判定。この日本の課題の解決方法は何か。単に領域ごとにリアリストを選出することではない。哲学界の中で競うとか、科学者同士が成果を競うとか、ではない。領域同士がそのリアリズムを競うことが、必要だ。

学際研究が、今時どうなっているかは、知らない。領域間のせめぎ合いの中で、何か新しい学問領域が生まれるような、創造的議論を、専門家同士が、するのだろうか。果たして、学際研究は、どの領域が、日本の未来を支える真のリアリズム足り得るのか、という判定、つまり学問領域の優劣をつけることができるだろうか。おそらく、アカデミズムにそこまでの思い切りはないだろう。 

領域間のリアリズム競争の勝敗は、誰が判定するか。対象領域は、単に学問だけに、とどまらない。芸術や宗教、あるいは実務的なこと、運動や取り組みも含まれる。これら、日本人が取り組む幅広い多様な営みは、ただ批評家のみが通覧し、善し悪しを判定できるのではないか。 

ただし、批評家も、どこかの領域に専門化してしまうと、領域間のリアリズムの優劣を判定する視角は、持つことができない。批評家は、学問に限らず、人間の幅広い営みを批評しなければならない。それができれば、真のリアリズムの判定者となる、資格を得るための基礎にはなるだろう。 

批評家が、真のリアリズムの所在を判定するには、何が本当に日本人の諸問題を解決し得る領域なのか、領域ごとの取り組みを評価し、これは解決を導けるぞ、という問題解決先取り型の見通し、つまり予言に近いことをやってのけないと、いけなくなるだろう。もしそうだとすると、批評家の資格は、満たすのにかなり高難度の基準をクリアしないと、与えられないことになる。 

そこで、忘れてはならないのは、優れたリアリズムの中心は、人、しかも、かなり個別の人物であることだ。領域に答えがあるわけではない。優れたリアリストがいて、その人を中心に問題が解決されていく。その過程で、特定の領域が受け皿になったり、途中で別の領域に足場が移ることもあるだろう。批評家は、領域を問わず、人物の批評にウェイトを置いてはどうか。 

きっと日本の問題を解決するリアリズムは、今どこにあるか、分からない。その状態で、どんなリアリズムが最善か、などとは、誰も判定できない。要は、ちょっとずつ、取り上げた人物のリアリズムをふるいにかけていくことが、できることではないか。言論は、リアリズムを選別するために、実際やらせてみて起きる、血みどろの競争を、不要としなければならない。やる前に、一定の見通しを、それこそ現実に基づいて立て、やってみたら日本全体が沈んでしまった、ということにならないよう、防波堤を造るのが言論の役割だ。 

言論は、結局のところ、机上の空論みたいなものだ。しかし、空論だからこそ、やれることがある。答えはないが、実践前の段階で、ちょっとずつふるいにかけながら、真のリアリズムあるいはリアリストを、ぼんやりとでも浮かびあがらせる。批評家は、当事者の、少し前を歩け。 

しかし、領域ごとに、強者が勝ち上がり、その領域の価値を上げていこうと努力する、そういう強者がいることが、前提である。その前提の上で、各領域における人物の活発な動きを、よく見定める、という批評がまずある。そして、その取り組みを評価し、今後取り組むべき課題を示す批評が続く。その結果として、真のリアリズムを宿した人を、どこかの領域に見つけるだろう。

真のリアリズムの判定、という日本の課題の解決手段は、批評である。そのとき、批評の重点は、人物であろう。批評の極意は、批評対象の美質を見定め、批評対象になりきることだ。批評家にその準備はあるだろうか。

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