課題の教科書

Critical Realism for All Leader

ルネ・デカルトの哲学原理|西洋近代合理主義哲学の権化|その課題設定とは

ルネ・デカルト(1596−1650)。17世紀フランスの哲学者。西洋の近代合理主義哲学の権化とも言うべき人物である。この人は、悠々自適とも言うべき暮らしを送りながら、先駆的な哲学を独創した、幸運と才能が結びついた典型例であろう。

世俗とは隔絶した象牙の塔で、一人思索を重ねる、後世の哲学者のイメージは、デカルトにはない。世間という大きな書物に接して学ぼうと、世界を旅した。この人は、哲学的考究と世俗的生活を峻別し、それぞれの弊害が他を脅かさないようにする、大人びた節度を備えた人でもある。 

デカルトは、哲学を知恵の探求として定義した。それは処世の術とは異なる、と本人はことわっているが、人間の生活を含めた、あらゆることの完全な知識を有することを意味した。彼は哲学の課題を、全ての物事の最初の原因、原理を探求することに定めた。何と青臭い理想を唱えることか、と思わなくはない。しかし、デカルトにとって、第一原理の究明は、全ての始まりにすぎなかった。その後、西洋で進展した近代化の大波は、この時デカルトがその思想に密かにこめた、恐るべきパワーの発現以外の何ものでもない。 

我思う、故に我あり。この、あまりに有名な、第一原理は、その歯ごたえの固さにおいて、他のいかなる思想家の箴言と比べても、群を抜いている。西洋の近代を見直すにおいて、この第一原理の内蔵する比類なきパワーの源と、その内部構造の是非を論じたい、と思うのは、自然なことだろう。しかし、近代哲学の淵源たる、一個の怪物の創造した、思考の極致というべき、言葉の構造分析に拘泥しても、とても勝算があるようには思えない。 

問うべきなのは、第一原理の客観的真偽ではない。むしろ、デカルトが、いわば信念に近い思いで定めた、哲学の課題の妥当性をこそ、問うべきである。今や、近代が歴史となった現代において、彼の設定した課題の妥当性の検証は、その課題の目的が何であり、どのように達成され、現にどんな価値を産んだかを確かめることで、為し得るだろう。 

デカルトは、最高善を、信仰の光なしに理性をもって考察しようとした。その結果、第一の原因を認識することこそ最高善であると確信したのである。近代の哲学者は、おそらく、この問題意識を承認した、というより前提とした。しかし、ひとたび、課題の妥当性の検証を目的におけば、一体これが、どんな真意に基づいているのか、そのことの解明なくして、目的を達することはできないだろう。 

端的に言って、我々は近代的自我をもつべきだったのか。問題は、デカルトは、真に自我の有無を証明し得たか否か、ではない。自我の存在を確信することは、我々にとって、一体どんな善なのだ。これが、真の問いである。デカルトは、信仰と理性を巧みに峻別し、哲学と生活を峻別した。その世知に長けた態度から、迫真の回答が返ってくるとは、あまり思えない。 

我々自身が、問いに答えなければならない。我々は、一体どんな善を得たのか。近代の中心にいた哲学者たちは、自我の善なるゆえんを、前提に置くほかなかったであろう。もはや近代からは遠く隔たった、我々こそが、まことの客観的精神によって、生活のリアリズムに基づいて、確かめなければならない。

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