課題の教科書

Critical Realism for All Leader

俳句小説『草枕』の作者|狂気と紙一重だった漱石|日本の西洋近代化

俳人に狂人はいない、と思う。夏目漱石は、小説家業のかたわら、俳句をよくしたと言う。『草枕』の作者、漱石は、客観的事実の淡々とした描写に徹して、作品世界を構成した。『草枕』は俳句小説と称される。この作品に登場する女の、ちょっと常軌を逸した振る舞いは、俳句小説の破調であった。

夏目、倫敦に狂せり、とは近代文学史上、最も有名な誤報だろう。彼が、前後不覚の錯乱、一般的知能の喪失を意味する破綻状態に陥ったとは思えない。もちろん、漱石の生い立ちや資質を云々して、その病歴を医学的に語ってもよい。しかし、漱石の精神を語るのに、日本の近代化という文脈を取り外したら、夏目金之助という一患者のカルテの内容に関心を持つ者など、今の医者にもいないだろう。夏目の不調は、近代国家への変貌を遂げようとする、黎明期を迎えた国家の宿命を背負った、ある一つの知性の反応である。 

漱石は、同郷の友、正岡子規との間で、自作の俳句に関して、やりとりしたという。思うに、漱石の俳句に、子規ほどの格があったとは思えない。しかし、漱石がその分、子規より狂っていたわけではない。漱石と子規という人物を並べてみれば、この二人の共通項は容易に見てとれるだろう。際立つのは、ユニークな個性の輝きである。両人ともに、その個性で近代という未曾有の時代を迎え撃ち、いずれも長命を保つことはなかった。 

もとより、明治は遠くなった。回顧趣味で言うのではない。日本の近代化という問題は、いつの間にか、どこかへ消えてしまった。我々日本人は、近代化など、とうの昔に乗り越えたかのような、余裕の体をしている。科学技術の研鑽、産業化の手法、西洋芸術の模倣、ライフスタイル。どれもこれも、日本人は、先生に優の判定を出してもらった生徒のように、漫然としている。 

しかし、現代日本において、心を病む人は絶えない。それも医療システムの中に組み込んでしまえば、もはや問題ではない、皆そう言いたげな顔をしている。医療の発達で、日本の平均寿命は、男女ともに八十パーセントを越えた。病気が落命のリスクである、という事実に変化はないが、短命に終わることは、それ自体何か病的なこと、というより何か異質なことのように思われる時代になった。

我々は、本当に近代化を成し遂げたのか。あるいは、成し遂げたのかもしれない。しかし近代化の問題はどうなのか。知らぬ顔をして、やり過ごしたままではなかったか。日本人にとっての近代化とは何なのか。漱石が追求した問題意識が、苔むした庭先の古井戸の底から脈々と湧いて出るのを、現代日本に生を受けた我々は、本当に一度も見たことがないのだろうか。私にはそうは思えない。

日本の近代化は、西洋の模倣であった、ということはあるまい。芭蕉の残した名句は、いずれも刮目すべき客観写生である。子規の目指した俳句の近代化は、すでに江戸期に種をまかれていただろう。日本の近代化を、「明治」という、便利な名辞と化した時代名称をかぶせて理解すると、問題の本質は見えてこない。明治期において、西洋は、日本に、近代化の手法、を提供したのだ。近代化を西洋化、というなら、西洋趣味の十分浸透したこの社会の住人にとって、近代化になど、もう興味はないだろう。しかし、我々は、手法を与えられることに飽き飽きしただけで、近代化を終えたわけではない。 

透徹した近代の理念を、持たねばなるまい。それは、西洋の先進例の模倣ではないし、古代の理想を追い求める復古主義でもない。今、我々の足元で起きている現実、これを克明に認識し、危機的なリアリズムの精神というものを発揮すべき時である。それは、一つに我々の認識の基盤をひっくり返すような批評が期待されるのである。そして、もう一つは、ありのままの現実から風圧を当て返されながら言葉を編み出していく、写実の精神であろうと思う。 

漱石」の精神は、狂ってなどいない。まだ死んでもいない。

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