課題の教科書

Critical Realism for All Leader

葛飾北斎|作品『富嶽三十六景』の世界|自然と芸術の転換

葛飾北斎(1760-1849)。江戸期の浮世絵師。 

この絵師の絵は、思わず写実と評したくなるほど、現実的だ。しかし、その実、写実ではない。絵に登場する素材は、形や大きさを大きくデフォルメされている。それでも極端な画風だとは、誰も思わないだろう。全てが自然な成り行きにしか見えない。

主役はあくまで自然である。時に画狂と称したこの絵師は、絵の素材をすべて、均等に平等な重みをもつ印として、配置する。作品『富嶽三十六景』における富士ですら、一つの風景として端然と振る舞うのみであり、絵の焦点は自然そのものの内奥に向けられたままだ。人の心情が言葉でうがたれた脚本など不粋なもの、とでも言うように、ただ風景が自然に動き始めるよう、構図が計算しつくされている。 

狂人は、物事と言葉との間を伝わる信号の波長が乱れた心の持ち主だ。ひと度、画狂老人の手にかかれば、我々鑑賞者は、言葉を取り違える。でなければ、なぜこの浮世絵を写実だろう、などと不用意に言ってしまいそうになるのか。まともな言葉を取り戻そうとして、その絵を食い入って見れば、絵を見る目と語る口まで画狂に奪われる。美術展で何度、冗語しか口にしない者を見てきたことか。それでいて、我々は、代わりに、自然を見る目を与えられた見者へと変身させられたのだ。 

見者となった我々は、自然に出て、森を見、川を見、富士を見る。野に広がる景色の中に、画狂の手になる画中の印の痕跡を見出す。自然は平面に塗り固められた印の点在へと化す。我々は画中の人となる。失語し、見る目を変えられた者には、そうとしか認識できないのだ。誰かが言った、「芸術が自然を模倣するのではない、自然が芸術を模倣するのだ」とは、正気と狂気を行き来したことのある者の言葉だろう。波長を狂わされたら、見るもの全てが絵となり、見るもの全てが自然となる。夢と現の境目に誘われ出たとき、自然がえり元を肌けて、何をもって魅惑するか、見ることができるのは、見者になりきった狂者のみであろう。 

北斎の絵を立て掛けてみよう。浮世絵は不敵にも室内に自然を連れ込んで、見るものを狂わせる。あの画狂は、果てしもない計算をきっちり合わせ、今も我々の心中の波長をチューニングし始める。象徴に身の上を献じ、写実への愛を偽装してみせた、かの老人の狙いは、錯乱の手にかかった鑑賞者にとっては、もはや定かでない。この男はもはや浮世絵師ではなかった。まぎれもなく、浮世にあって浮世を否定した男だ。自然の内奥にこの身を当てがわれ、沈みこんだ姿勢のまま、至福にひたる時間を、誰が浮き世のことと思いなすだろうか。

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