課題の教科書

Critical Realism for All Leader

ジャクリーヌ・デュ・プレの芸術|バレンボイム指揮のエルガー・チェロ協奏曲

ジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-87)。夭折の女性チェリスト

この人のチェロ演奏は、チェロの何たるかを語れない者まで饒舌にさせる、圧倒的な説得力がある。このチェリストの代名詞的楽曲といってもいいであろう、エルガー(1857ー1934)のチェロ協奏曲は、この人のために作られたのではないか、と夢想しても、非現実につきものの居心地の悪さを感じない。

チェロを演奏するために生まれてきた、とかいろいろな評価は、デュ・プレの演奏家としての存在に「運命」、しかも単なる運命ではなく、鑑賞者自身とも結びついた奇跡的運命、を感じた者の心情表現であろう。チェロ演奏にまつわる、全ての美質が一点に凝縮したであろうこの人から、発せられる音楽を聴けば、世界の実質を一瞬で了解させる魔力に接したかのような思いを禁じ得ない。彼女の演奏は、その間、鑑賞者を芸術家に変貌させる。 

デュ・プレは、二十八歳で難病を発病し、四十二歳でこの世を去った。1970年、彼女が二十五歳になる年に、バレンボイム指揮、フィラデルフィア管弦楽団と共演した録音、エルガー・チェロ協奏曲のCDが手元にある。 

出だしの悲劇的フレーズを、若きチェリストがどのような感情をこめて奏でたかは、知らない。聴いていると、いつの間にか、この悲劇的フレーズをなぞるように、心の中で音を唱える自分がいることに気づく。悲劇が奏でる悲劇の意味を知りたくてならないからだ。 

ピタリと定まった音程、さりながら、フレーズの切り替えに起きる微妙な音のずらし方、あるいは機敏に流れを切り落とす勇断。聴く者は、結局、その濃く煮詰められた音楽と並走し続けることができない。帳のおりた劇場の奥に去りゆく劇中演奏家の背中を、遠くから見つめるだけだ。 

あなたは、知っていたのだろう。この演奏が、その証だろう。そう問いかけたくて、当人はもはやこの世にはいない。録音を聴きながらその人の残影を思い浮かべ、芸術の怪を前に、座り込むことしかできない。もはや惜しいわけではない。その名声は不朽のものとなろうとしている。歴史となれば、全ては必然と化する。しかし、聴く者として、この身に起きた奇跡をどう理解すればよいのだろうか。 

芸術は人をして問わしめる。浮き出した問いは、答えもないまま、さまよい続けるだろう。芸術家は、その成り行きを楽しみに眺め、曖昧な受け答えを添えたり、次々と作品を生み出してさらなる問いを誘発する。デュ・プレは、反響を巻き起こし、チェリストとして、芸術家として花開いた。その死に至る病は、デュ・プレが芸術家であり続けることを断ち切った。悲劇を奏でるデュ・プレが、芸術そのものとなるのに、死をもってするのが美神の命ずる運命であったのか。 

並走することに疲れ、彼女の背中を見送る我々は、芸術家であり続けることの重みを少しだけ知ったことに、気づくのが関の山である。芸術となった芸術家の想いは、はるか遠くに霞んで見えない。

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