課題の教科書

Critical Realism for All Leader

与那国島の海底遺跡論争|人工物か自然物か|予測できない楽しみな結論

この間、テレビを見ていたら、沖縄県与那国島近海の「海底遺跡」と言われるものの特集をやっていた。 

あの規則的な造形は人工なのか、自然にできたものなのか、で意見が別れているらしい。 

どっちにしろ、ありそうだな、と言うのが感想である。つまり、どっちでも驚かないと言うのが、正直な感想である。そう思いながら、ぼんやり画面を眺めていたが、スタジオに出ていたコメンテータの言葉が興味深かった。 

「自然の営みは、人間の想像をはるかに超えているんです。」 

このコメントが、人工説に与していたものか、自然説を推していたものか、もはや記憶は定かでない。しかし、そのコメントの面白みだけが、やけにその後も印象にこびりついた。 

海底遺跡の由来について、人間があれやこれや想像を巡らし、合理的と呼ばれる作法で推論を固めても、そんな生半可な知識の作り事は、あっという間に吹き飛んでしまう、そういう自然の力が、どこで働いているか、わかりませんよ。そんな意味に受け取った。番組の一視聴者としては、この発言が、その番組では、一番の学びになった。 

自然に学ぶ、という姿勢は、よく聴く。なぜ自然に学ぶのか。それはよくわからない。しかし、海底遺跡ではないが、どんな理論や学説に基礎を置いて、想像や推論を展開しても、ちょっとした事実の前にはあっという間に否定されてしまうかもしれない。ちょっと計算して答えを出した、で済むような、なまじっかな相手ではないから、自然というのは学ぶに値する。自然に比肩しようと思ったら、人間は際限なくパワーアップし、たくましくなくてはならない。 

都会や街中に住んでいると、自然を規則的な営みとして理解してしまう。四季が定期的に巡ってきて、台風の季節には、気をつけるべきことを気象予報士が、要点立てて解説してくれる。雪の日には、こういうことに注意してください、とか、いろいろなことがパターン化され、対処方法も形式知化される。昔は天体の運行を観測して、星々の動きを予測することに科学者は取り組んだし、自然というものは法則に基づいて動くものだ、という自然観がおのずと定着しているように思える。 

こういう自然観が、実は単なる人間の理想を焼き付けただけの薄紙でしかなく、自然は常に、人間が計算した程度の法則的理解を常に逸脱する、深みに沈み込んだ存在なのだ。こちらの方が、本当の常識だと気づいて、ハッとした。 

科学者は、自然を制御しようとして、自然を理解しようとする。それは、確かに学びだ。しかし、ある違和感がなくはない。自然を理解した気になりたくて、科学研究をするなら、こんなにやりがいのないこともないだろう。むしろ、自然に学ぼうとして、結果、自然に裏切られることが、科学の本当の面白みではないか。人間の知的好奇心にとって、驚きほど滋養になるものはない。自然が思い通りにならなくて、その瞬間絶望するのか、まだまだ想像力たくましくならねばならない、と言って腕まくりするか、そのどちらの態度をとるかが、一つの大きな試金石ではなかろうか。 

海底遺跡が人工物か自然物か、回答はまだ出ていない。どっちが正しくてもよい。しかし、今後研究が進んで、我々の積み重ねた推論や期待が見事に裏切られる、驚くべき事実が浮かんできてくれたら、と心密かに期待している。

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