課題の教科書

Critical Realism for All Leader

詩の書き方|詩人、アルチュール・ランボーを手がかりに|地獄の季節

詩をどう書くか。詩というものに書きかたはあるのか。 

19世紀のフランスの詩人、アルチュール・ランボーは、詩論でよく引き合いに出される。 

詩に親しんでいない人は、その言語表現にめまいを起こしそうになる。すでに詩に親しんでいる人も、初めてこの種の詩を読むなら、おそらく衝撃を受ける。ふつうに理解できる言葉の使い方ではない。どこからどう読んだらよいのかわからない。

しかし、わからないながらも、その言葉の音(おん)を頭の中で刻みつけながら、読んでいくと、一種の調性とリズムに独特の風格を感じることができる。解釈しようとする人もいる。しかし、解釈しなくても読むことはできる。その詩を読めば、心の何処かの壁に言葉が当たって、ことりと音が鳴る。共鳴するかしないかは、詩人と読み手との間の宿命的関係でしかない。 

詩人の胸中を察するには、詩を読む以外にない。おそらく詩人は、眼に浮かぶ情景を、脳裏に焼き付け、炎を当てて輪郭をあぶり出し、精髄を精錬して溢れ出た言葉をポロポロと語り続ける。最初からある本質を理法に即して言葉に変換し直して語るのではない。言葉が先に溢れ出して、言葉がつないだ言葉を、無心に次へとつないでいく。本質が現れるとしたら、それはことの成り行き次第であり、焼きあがった陶磁器の紋様のように、意志の必然と自然の偶然が一緒くたになって生み出した奇跡のような造形である。 

習慣づいたありふれた言葉を並べ、読者との間の惰性の関係で成り立つ理解、あるいは自分にとって都合のいい評価、こういうものを目論む。そういう、世渡りのために使い込まれた言葉を、いわば辞書的に使用する古臭い語法は絶無に近い。処世術をはるかに越え出た、自由な言語の詩的利用には、他を絶する品性が香り始める。処世にたけた読者は、この言語を理解できないと思い苦しむ。否、本当は、いかに世界を理解していなかったかを痛感するのでなければならない。 

時代の奔流とはかけ離れた、このありふれた日常に、どれほどの神秘が息づいているか。それを知らずに、我々は日々を生きている。虚心に現実を見つめ、その底流にそっと足をおろし、水温を頭の中で声に出して言ってみる。それを言わずにはいられない、という衝動が、詩の作法である。詩人の資格は、詩に学んだものに与えられるのではない。世界にその身を突きつけようとする者にのみ与えられる。神秘の絶海が視界に広がる岸壁から、身を躍らせる瞬間だ。 

詩は儲からない。金にならない。なぜなら、詩の魅惑に、ほとんどの人が気づかないからだ。需要が小さければ経済的利益も小さかろう。それゆえ、詩人は美神を独り占めにできる。詩人は先行者利益を永遠に享受する者だ。数多の金儲け主義のために界隈で安売りされる経済記事に、まだ誰も、現実世界の底流に足を浸す実感を、活字として載せたことはない。 

詩は理想ではない。詩は現実そのものである。理想を追う者は、現実に足元をすくわれ、転んだままの姿で、まだここは現実だと気づき落胆する。現実に降りていく者は、地下の空圧を吸い込みながら、その先にまだ見ぬものを見つけるだろう。この世は地獄、とは理想主義者の敗北宣言だ。この世が天国だと最初に気づいたのは、きっと詩人であったに違いない。しかし、その後に待ち受けるのは、地獄にも似た倦怠と言うべき季節である。

スポンサーリンク