課題の教科書

Critical Realism for All Leader

小林秀雄の批評のわからなさについて|批評の命|湯川秀樹、岡潔との対談

最近、小林秀雄なる人物についての批評文を小さな記事の中でもよく目にする。 

昔は、批評の神様として知られ、大学入試の試験問題でその作品が読解問題の題材としてよくとりあげられた。 

そのため、受験生の必読文献として扱われることもあったが、最近はそれほど若い人に注目されることはなかったようだ。

このところ、小林秀雄の文章表現を、やや批判的に取り上げる記事をよく目にする。

その難解でまわりくどい表現が、やや否定的に受け止められている。 

確かに、さっと読んだだけでは、その論旨を把握することが難しい。もうちょっと素直な表現はできないものか、と思うこともある。しかし、それは小林秀雄と同じ視座に立ったことがないため、小林の見ている景色が全く想像できない、という側面もありはしないか。 

小林の残した対談録は、比較的読みやすい。机に向かって練りに練った文体で繰り広げられる文章とは異なり、相手の職業や見てきた景色、そのときの問題意識に応じて、丁寧な言葉づかいで語りかけている。 

湯川秀樹岡潔といった理系の学者に語りかける言葉を拾っていくと、小林という文士がどういう考え方をする人なのかよく伝わってくる。確かに、小林の言うことは、あまり根拠が明確でない。しかし、小林は、世を生きる生活者としての、ある確信、信念を述べている。その確信は、読書、思考、対話、生活の中で培った経験の中から、本当にこれが大事だと思うことをありのままに述べる、人間としての正直さであるように思える。 

小林は結論を述べる。言っていることは、すべて結論めいている。余計なお世辞に時間を費やさず、本質的なことを説明抜きで端的に言い切る。この人は、どうもそういうスタイルをとるようだ。考えに考えてつかんだ、結論部分だけを結晶化して述べる、そのスタイルは思想家のそれである。

小林と同じ深度で考えなければ、小林は見たこともない景色について語る意味不明の人である。しかし、同じ方面について考え続ければ、小林の言葉は考えるためのヒントにはなる。問題は、小林の言っていることに根拠があるか否かではない。もっと言えば、言っていることが、正しいか否かではない。問題は、私たちが何を学べるかだろう。 

客観的に正しいことが書いてあるか否かが問題になるのは、いわゆる学術的な論文である。批評はそうではない。考えたことの輪郭が言葉になっていることが、批評の価値である。つまり、考えたままを、克明に、正直に言葉にしていくこと。ふと思い浮かんだ言葉が、新たな言葉を連れ出して、玉突きのように思わぬ言葉と出会っていく。そのありのままの思考活動こそが、批評の命だろう。ランボーの詩に衝撃を受け、詩を愛した小林の言葉は、詩情にあふれている。 

小林は批評を芸術にまで高めた人である。芸術とは「何かわからないもの」である。小林の批評がわからないという現代は、小林の作品を芸術として認めたに等しい。つまり、小林の作品は、かつてとは、もっと違った読み方ができる。そういう機会がもたらされたのではないか。

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